第二章・難破船・その一
気がついたら水の中にいました。
「ぷはぁっ!」
日暮坂歩が水面から顔を出すと、いつもの祭儀室ではありません。
玉髄の砲塔基部は、もう少し狭かったはず。
「まさか翡翠……な訳ゃねぇか」
装甲巡洋艦(構造的には装甲帯巡洋艦)に相当する関安宅【翡翠】は、戦艦に相当する安宅船【玉髄】よりも一回り小さい主砲塔を持っています。
しかし、ここはどう見ても安宅船の主砲塔。
玉髄より大型で新型、しかも悪樓釣りに特化された釣行艦に間違いありません。
主砲塔を外して祭儀室を設けるなど、魔海対策庁以外、特に軍隊ではありえない発想です。
「ここはっ……まさか、いままで釣りしてたのは夢だったのっ⁉ ここどこの旅館っ⁉ いやでもあたしたち宿泊費なんて出せないよっ⁉」
板で仕切られた隣の浴槽で、支室百華がパニックを起こしかけていました。
「……歩さん? 私たち、どうして裸で……いえ、お風呂場で裸なのは当たり前ですが……」
陸野女子高校海釣り研究会部長の榎原藍子も、無事召喚されたようです。
「まあ落ち着けって。ここは風呂場じゃねぇ」
「でもお湯ですよ、これ」
反対側の浴槽に渕沼小夜理がいました。
いままで常温の海水だった祭儀室の浴槽が、今回は人肌くらいのぬるま湯になっています。
しかも冷房が効いているのか室温は低め。
確か玉髄や仏法僧型関安宅の炭酸曹達式冷房装置は、弾薬庫にしか存在しなかったはず。
空を飛ぶ竜宮船は外気を取り込みやすいので、いままで暑さで苦労する事はありませんでしたが……。
「新型艦かぁ」
浴槽内で使われる海水の湯沸かし器はともかく、艦内の冷暖房完備となると、甲板に出るのが嫌になる欠点があります。
最悪、艦外に出た瞬間に汗まみれ、巫女服がスケスケになってしまう可能性も。
「ぬるいけど~、あったかいよ~?」
稲庭風子は両手を組んだ水鉄砲で、ピューピューと歩の背中に当てて遊び始めました。
「皆様、弥祖皇国へようこそおいでくださいました。わたくしは第一皇女の玉網媛と申します」
新顔がいるのを見て自己紹介を始める玉網媛。
「ここは蕃神様の方々が異世界とお呼びになられる世界で、常世では高速戦艦と呼ばれる速安宅【月長】の艦内にございます。常世の船と異なり空を飛んでおります」
毎回毎回、異世界だの空飛ぶ軍艦だのと大騒ぎされるので、玉網媛は先に説明を済ませる算段でした。
もっとも、その説明は不足気味でツッコミどころも多く、歩たち常連にしか通じそうにありません。
玉網媛は異世界モノの定石である【なんだかんだで見せた方が早い】を知らないのです。
「おやタモさん、今回も一人で召喚かぁ? いつもの巫女さんたちはどこ行った?」
普段なら複数人で行われる蕃神召喚術ですが、ここ最近は魔海対策庁の職務から外れた私事の召喚が多く、抄網媛に単独で召喚される事が多かった歩です。
「実は長年勤めた巫女頭が寿退職いたしまして……」
「そりゃめでたい。俺もあの人は覚えてるぜ」
顔は知っていても、弥祖の人間と蕃神の会話を禁じる法律のせいで、面と向かって話した事はありません。
「……それで相手は?」
「仏法僧の砲術長です。先日、醒州海軍の新造艦へ異動となりました」
主砲塔を撤去されてしまうので、乗組員たちの多くが魔海対策庁を去っています。
しかし軍の出世ルートから外れるのを恐れた士官さんたちの異動はともかく、そのついでに庁内の女性局員を誑かし連れ去ってしまう事例が絶えず、問題化していました。
他の省庁からやってきた官僚さんなど、前途有望な男性職員も多いはずなのですが、女っ気がなく常に嫁探しの機会を伺う海軍さんには油断も隙もありません。
現在、巻網媛と抄網媛が対応策を検討中。
特に女好きの抄網媛は、悪い虫を撃滅せんと見敵必殺の覚悟で応戦しています。
なんだか今日明日には解決しそうな気がしてきました。
「他の神官たちは本庁舎にて待機中です」
魔海対策省庁仮本部庁舎兼本局棟【なのりそ庵】の近くにある浮桟橋には、いざという時のために仏法僧を残しています。
玉網媛の留守中に大規模な魔海が発生すると、場合によっては磯鶴高校船釣り部の四人だけでなく、歩たち釣り研究部の召喚も必要になるので、抄網媛だけでは人手が足りません。
巻網媛なら一人で八尊の蕃神を召喚する程度は容易いのですが、妊娠初期で主治医から神力の使用を禁じられているため、数少ない巫女さんたちは後詰めとして、その全員がなのりそ庵に残っているのでした。
もちろん玉網媛は六尊召喚くらい楽勝です。
「そっかぁ……それで、月長だっけ? 今回はどんな欠陥艦艇なんだぁ?」
「失敬な! 浮揚機関と推進機関を兼ねた新型の小型機関を数多に装備し速力はあっても挙動に融通の利かない本艦を欠陥品呼ばわりなんて!」
どこからどう見ても立派な欠陥艦艇でした。
玉髄はヒラシュモクザメの宝珠を使った大出力推進機関を一基しか装備せず、方向転換に支障をきたしていたのですが、月長はその逆を行ったのに、なぜか似たような結果になってしまった模様。
「悍馬(じゃじゃ馬)じゃねぇか」
「これでも関船並の速力があるのです!」
「まっすぐ飛ぶしか能がねぇんだろ? こりゃ艦長さんも大変だ」
月長は機関が特殊すぎて、ただ海上を走って空を飛んで入出港を済ませればよい、なんて簡単には行きません。
運用経験を蓄積し、次代の乗組員たちに伝えなければいけないのです。
とっくに定年を過ぎて魔海対策庁のお抱え待遇になっている玉髄の艦長さんは、推進機関からヒラシュモクザメの宝珠が脱走して以来、暇を持て余していたので、月長に移って最後の大仕事と張り切っていました。
玉髄を降りて退役を希望していた機関長さんも呼び戻され、また奥さんを泣かせています。
「国海軍も注目しているのです!」
この欠陥品が、ひょっとしたら使いものになるのではないかと。
誰よりも経験豊富で、癖の強い玉髄を操艦し続けた艦長さんなら、この艦を本当に使い熟してしまうかもしれません。
艦長さんは、いまでこそ大佐扱いですが、元は元帥。
権力と人脈があるので、成功すれば新型機関が次世代の艦艇に採用されるのは確実でしょう。
「こりゃ英国面より酷ぇな」
きっと月長の艦長さんにしか扱えない超難物です。
正式採用されて後継艦が建造された暁には、乗組員たちが死ぬほど苦労する事でしょう。
そして負の歴史に刻み込まれ、後々《のちのち》の世に延々《えんえん》と語り継がれるのです。
「積もる話があるのはわかるけどっ、そろそろちゃんと説明してよっ!」
痺れを切らした百華がキレかけていました。
「おっといけねぇ。水が温けぇんで忘れてたぜ」
普段なら体が冷えて浴槽から飛び出す頃合いです。
「ところでタモさん、八尋はどうした?」