序章
「神気図ってどんなのかと思ってたけど、天気図と大して変わらないんだね」
魔海対策省庁仮本部庁舎兼本局棟【なのりそ庵】の神官長執務室にて。
抄網媛は玉網媛の指導を受けながら、気象庁に送る神気図の添付書類を作成していました。
長い黒髪に薔薇色の重点が入った白い巫女服を纏う玉網媛と、短い白髪に赤い小袖と茶色の袴を纏う抄網媛。
並ぶと紅白饅頭のようで縁起がよさそうな光景です。
「わざと似た形式にしているのです。差があると気象庁の方々が混乱いたしますから」
玉網媛が答えます。
「神気図は一部の記号こそ異なりますが、高神気圧や低神気圧など……」
「いや、そこじゃなくて、天気図と重ねたら完全に一致するんじゃないかって話だよ」
抄網媛は神気図の存在意義そのものに疑問を感じているようです。
「いえ、神気は大気とは異なり、完全な空白地帯が生じる事例があるのです。それも多数」
「そっか、地上の大気は絶対真空なんて起こりっこないもんね」
「それに神気図は竜宮船の運行に欠かせません」
計測には宝珠を内蔵した機器が使われています。
「神気の濃度で機関の出力は変化いたしますし、無神気は船の墜落すらありえます」
ただし天気図も神気図も、地上で観測したものしかありません。
高空天気図や高空神気図を作成できる機器があれば、竜宮船の運行はさらに活性化するでしょう。
「それはわかる。宝珠を使った動力機関は妾の専門じゃないけど、車両なら設計した事あるからね」
抄網媛は双子の弟である支夏命を騙り、戦車や自動貨車など醒州陸軍の装備や、農耕用牽引車の設計図面を引いた前科がありました。
ちなみに自宅の笹浦城で自作していた超小型車は、なのりそ庵の車庫に移され埃を被っています。
「でも地上で神気の空白なんて聞いた事ないよ。なんで海上だけ発生するんだろうね?」
「海上だけではありません。河川や、その近隣に発生する事例はあります」
「……やっぱり魔海?」
神気の空白海域に発生する異空間【魔海】。
そこでは一切の神力が使えず、竜宮船も出力を失って墜落する危険区域でした。
そして巨大な魚【悪樓】が泳ぎ回り、なにをするでもなく時間経過で魔海ごと消滅してしまいます。
「空白海域との直接的な関連は証明されておりませんが……関係がない訳がありませんね」
神気が失われるから魔海が発生するのではなく、魔海が発生するから神気が失われる、という学説は存在しますが、魔海の正体すら判明していない現状では、なにをどう調べればいいのかもわかりません。
ただし利用法だけは判明しています。
常世(異世界)の人間である蕃神を召喚し、悪樓を捕獲して竜宮船に使う宝珠を獲得するのです。
悪樓から得られる宝珠は世界中で使われている重要な動力資源なので、技術革新と工業化を達成したいまでは需要が激増。
弥祖皇国でも、いままで本州周辺で悪樓釣りをしていた魔海対策局を魔海対策庁に昇格、全国に支局を設置するなど規模と権限の拡張が決定され、その準備が行われていました
なにせ燃料が不要で、神気と冷却水さえあれば無限に使えるのです。
竜宮船だけではなく、発電所も宝珠の力で稼働していました。
「……逆もあるんじゃない? 神気の使いすぎで魔海が発生するとか」
「前例はございません。それに濃度が極端に薄くなれば、宝珠も力を失います」
「そっか、真空になる前に機関が止まるんだ」
「過去には何度か人工的に魔海を発生させようとする実験が行われましたが、どれも失敗に終わっております」
「なるほどね……でも、大規模機関を密集させた発電施設を一定距離ごとに点在させたらどうかな? ただ神気を薄くするんじゃなくて、神気流を制御し交差させたり、速度の異なる流れを並走させたりして、その隙間に真空を作るんだ」
「渦潮のように?」
「そうそう。それなら不可能とはいいきれないよ?」
「……………………」
玉網媛は抄網媛のいわんとする事を察して絶句しました。
「もちろん偶然と過失でそういった状況が生まれる可能性だってある。発電所は都市部に近づけない方がいいと妾は思うね」
発生区域さえわかれば無害な魔海でも、地上で発生すれば災害化の可能性があります。
実際、先月は江政の市街地で発生し、警邏庁や陸軍の邏卒隊の活躍がなければ死亡者が出るところでした。
「……わかりました。内務省に通達しておきましょう」
玉網媛は抄網媛がお喋りしながら書いた書類を纏め、椅子から立ち上がろうとしました。
「それは儂の仕事じゃ。控えよ」
「伯母上……」
執務室の入口に巻網媛が立っていました。
熊のような黒に四房の白が混ざった縞模様の長髪、六尺五寸(百九十七センチ)に及ぶ長身で、常人では支えきれないほどの巨大な乳房を抱えています。
すでに四十を超える年齢ですが、漲る神力のせいか、三十代前半にしか見えません。
「おや伯母上、ご懐妊で長期休暇じゃなかったのかい?」
「休んでなどおったら年が明けてしまうわい。それに主どもには任せられぬ」
「信用ないんだね……姉上は」
「なんですって⁉」
組織と権限の拡大が決まったいまの魔海対策庁を玉網媛に舵取りさせたら、国内の神力持ちが一人残らず駆り出されてブラック業態確定です。
毎日二十四時間悪樓釣り、なんて可能性は、可能性ですらありません。
「ところで伯母上、乳押さえの調子はどうだい?」
先日、抄網媛は弥祖陸軍御用達の呉服店と共同開発した、超巨乳専用下着の試作品。
「まだまだ改良の余地はあるとは思うけど……肩凝りとかは?」
「うむ、いまのところ極めて良好じゃ」
巻網媛は筋力も人並み外れているので、巨大な乳房があっても肩凝りとは無縁です。
「う~ん、伯母上じゃ頑丈すぎて参考にならないなあ」
本来は乳房の大きいすべての女性を想定しての開発なので、被験者である巻網媛の筋力体力耐久力が想定外なのは困りものです。
「仕方ない、また蕃神様に頼むとするか」
抄網媛が知る人間で、巻網媛に次ぐ乳房を持っているのは、蕃神である日暮坂歩しか存在しません。
しかし蕃神召喚術では、せいぜい二日で帰還してしまいます。
蕃神には蕃神の生活があるので、そうそう頻繁に召喚する訳にも行きません。
「じゃが、この乳押さえでは飛んだり跳ねたりはできぬな」
「そこまでは想定してないよ。いまのところは、だけど」
軍部が絡んでいる以上、格闘ができる性能まで向上させるのが目標となるのは当然です。
女性軍人が戦場に出る可能性は当分ありえないとはいえ、いつなにが起こっても対応できるようにするのが軍隊というもの。
同時に、この計画は男性用の装備品への応用も期待されていました。
おかげで開発部門の資金は潤沢。
抄網媛も作りかけの超小型車を放り出して、設計と改良に夢中になっています。
ちなみに、いま巻網媛が着用しているのは試作第三十二号、最新作です。
「伯母上、大事なお体で無茶をしてはなりません」
堪らず玉網媛が窘めました。
「そうじゃったな。思うに動けぬくらいで丁度よい」
巻網媛はお腹の子に障る可能性から、神力の使用を極力避けろと主治医に念を押されています。
いままでは巨乳を支えるために、全身に神力を巡らせる必要がありましたが、それを不要とするために作られたのが抄網媛設計の新式乳押さえでした。
「問題は産後じゃな。さすがに赤子を抱いて跳躍する訳には行かぬが、いざとなれば我が子を守れる程度には動けぬと困る」
「十月もあれば神力抜きで格闘できるくらいにしてみせるよ。この開発計画で不銹鋼の鋼線が発明されたりとか、軍部がやけに張りきってるしね」
下着一つで爆発的な技術改革が始まってしまったようです。
「これも歩ちゃんが非晶質の原理を持ち込んでくれたおかげだよ」
歩は乳押さえに鋼線を入れる技術を技術の他に、ネットで調べたアモルファス合金や強磁性体、加熱や冷却による熱処理など冶金技術を持ち込み、さらに鋼線には自己免疫疾患を防ぐための金鍍金を提案しています。
こちらは軍部どころか弥祖全体の技術、特に金属加工や電子機器への応用が期待され、もはや服飾の域を超えて、多岐に渡る業界に注目される一大計画へと進展してしまいました。
新式乳押さえ計画の情報は、女性軍人の導入や社会進出に向けた政治宣伝として詳細を一般公開していますが、それ以外の新技術は、いまのところ国軍と軍需関連企業のみに限定されています。
しかし技術の存在そのものは噂で広まっているので、州軍や周辺諸国の目に留まるのは確実な訳で……。
「乳押さえで儂の名が歴史に刻まれそうじゃ……」
巻網媛は表情ひとつ変えてはいませんが、頬は羞恥で真っ赤に染まっています。
政治宣伝政策の影響で、大嫌いな写真も撮られまくってしまいました。
抄網媛主導の元、巫女服はもちろん夜会服や繋ぎ服まで撮影され(抄網媛は水着姿も提案しましたが、巻網媛の懇願と拳骨により却下)、報道機関に出回って肖像写真は売り切れ続出。
見た目は若いとはいえ、四十を超えているのに首相夫人なのに妊婦さんなのに国民的偶像に祭り上げられてしまった巻網媛は、もはや街を歩けぬと嘆くばかりです。
「ところで伯母上、もしかして蜂雀でお帰りになられたのですか? わたくしはまったく気づきませんでした」
玉網媛の探知能力は湾内すべての宝珠利用機関を捕捉できますが、抄網媛の指導に夢中になっていたとはいえ、蜂雀の寄港をまるで探知できませんでした。
あと巻網媛と一緒に偶像御披露目させられる可能性にも気づいていません。
「ひゃっとして隠形装置使った?」
あと抄網媛は、偶像の話が回ってきたら瞬時に雲隠れするつもりです。
醒州海軍から魔海対策庁(乗組員は醒州海軍からの出向)に所属を移した小早【蜂雀】は、抄網媛の専用艦です。
隠形装置をつけておいてよかったと安堵する抄網媛。
いざとなったら巻網媛もつれて逃げようと考える、心の余裕すら生まれています。
玉網媛は囮として、なのりそ庵に置き去りにする算段でした。
「うむ。あれはなかなかよいものじゃ」
「乗り心地をよくしようと機関を改造したんだけど、変な副作用が出ちゃってね」
「機関は専門外ではなかったのですか⁉」
「専門じゃないよ。でも弄れないと自動車作れないじゃん」
「なんて多芸な……」
呆れる玉網媛。
「しかし機関の神力放射を艦内に封じ込める絡繰りは問題じゃな」」
一定以上の神気が充満すると、身重の巻網媛に影響が出る恐れがあります。
「揺れが収まるのはよいが、おかげで羅針艦橋しか居場所がのうなるのは困りものじゃ」
「そこは勘弁してよ。その代わり女性向けの座席は作ってあるんだしさ」
「ちと小さめじゃったが、あれは座り心地がよかったのう。軍部に意見して量産させねば」
「そうしてくれると助かるよ。できれば民間にも出回るといいんだけど、それはもうちょっと先でいいかな」
魔海対策庁に赴任して二週間も経っていないのに、抄網媛は早くも弥祖の女性進出における最重要人物になっていました。
おかげで女性軍人制度が本格導入される頃には、女性向けや男女共用の装備が氾濫していそうです。
「……ところで伯母上、近郊に妙な竜宮船がいるようですが」
知らない間に蜂雀が帰港したせいでムキになっていた玉網媛が、見覚えのない船舶を捕捉していました。
「まるで魚の群れが泳いでいるような……?」
「ひょとして海軍の二十三号艦かな? ようやく就役したんだね」
「新型ですか?」
「う~ん、結構前の話だよ。実験的に導入した機関がとんでもない欠陥品で、廃艦になって標的艦にされるとかされないとかって。でも実用化に成功したんじゃないかな? 伯母上は伯父上になにか聞いてない?」
伯父上こと柑子寛輔主席宰相は巻網媛の旦那様です。
「うむ、それがじゃな……」
「ちょっとあれ近づいてません? ここに着水するようです!」
「では見に参るとしよう。ついて参れ」
巻網媛が窓から跳躍しようとして思い直し、廊下を歩きます。
三人がなのりそ庵から出ると、巨大な安宅船が海上スレスレを低空飛行していました。
「あれは……⁉」
月白の艦体に薔薇色の艦艇色。
霜降雀にも使われている玉網媛の個人色です。
「あれは今日づけで魔海対策庁に配備された速安宅【月長】じゃ」
推進機関の核であるヒラシュモクザメの宝珠を失い浮桟橋に停泊したままになっている安宅船【玉髄】は、巻網媛の趣味に合わせた象牙色の艦体と菫色の艦艇色でした。
つまり月長は長官である玉網媛ではなく、玉網媛専用に配備された艦なのです。
艦首で両手を振っている宝利命の姿も見えました。
「では玉髄はもう……」
曳船が数隻、浮桟橋の玉髄に近づいて曳航の準備を始めています。
「廃艦じゃ。軍の船渠にて解体される」
玉髄に五年乗った玉網媛と、四年前まで十年乗った巻網媛。
二人の表情は異なるものでしたが、その瞳は哀愁に満ちていました。