40%の試練
もし将来、「勉強って何でするの」と聞かれたらなんて答えよう。
僕自身もそう疑問に思った回数は多い気がする。決まって大人は、「将来役に立つから」とか「いい学校に入れるから」とか、抽象的な言葉遊びをして、終いには「あなたのために言ってるの」と怒られてしまうこともある。違う。僕は今、猛烈にゲームがしたいんだ。
時が過ぎ、成人式を迎えると、「僕は、私は、今、こんな勉強をやっているんだ」という声は随分と小さくなった。ニ十歳になって間もないはずなのにお酒の強い弱いトーク、おそらく交じり合わないだろうサークルトーク。その話は、親の前でもしたのだろうか。してたとすれば、数年経って遊びが「自由」を手にしたということか。いや、「彼ら」の遊びは生まれてから「自由」を手にしていただけか。ねぇ、そこの君。君だよ。今、何したい?
欲しいものを買うときは、一か月経ってまだ欲しかったら買いなさい。と言われたことがある。本当にそうだろうか?ヒトの脳は睡眠中にいらないものを捨てていき、最終的には40%しか記憶は残っていないという研究結果をみた。それが本当なら、欲しいものを買うためには、30日間、毎日「40%の試練」と無自覚のうちに対局、さらには打ち勝っていかなければならない。途中でいらなくなってもいけない。もし、見事試練をクリアして30日間覚えていたとしても、もうそれは買わない方がいい気がする。期待値が大きくなりすぎているからだ。
遊びも同じだと思う。「宿題終わらせてから、遊びなさい」「ゲームやってるけど、宿題はおわらせたの?」遊びを待って宿題をしているときの脳は、何を考えているのだろう。その勉強は遊びのための道具になっていないか?遊びは思いついたときにやるべきだ。「40%の試練」に打ち勝つことは、そう容易ではないぞ。
そうはいっても、何も僕は「勉強するより遊べ」と思っているわけではない。「やるべきこと」をやるよりも、「やりたいこと」をやる方がすぐに見返りが得られるということだ。大人になってしまうと、どうも長期的・多角的に見える人が好しとされ、思いついたことをやろうとすると、躊躇してしまう。思いついたことをやる人の方が、楽しそうなのは気のせいだろうか。
僕はずっと、「勉強をしない人」を見下していた。それは、遊びに「自由」がないからか、勉強が正義と思っているからなのか、いろんな理由がありそうだ。でもそんなレッテル剥がしてしまおう。レッテルを貼ってしまうと、自分の行動範囲が狭くなってしまう。二十歳になってお酒のはなしをする方がよっぽど楽しいのではないか。
そうだ。子供にはこう答えよう。「勉強楽しくない?ゲームとかと同じように楽しいところもあるのになぁ。まだそこまでは到達してないかぁ」勉強して面白い、楽しいって思えるまでには時間がかかるよ。でもね、楽しいって思えるころに君は、「40%の試練」ていうステージに旗をたてているだろう。「勉強しような。遊びも挟みながら。」