いかりんとふさもりん 番外編・竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-
むかーしむかし。むかしと言っても、ミャークの島を“豊見親”と呼ばれた偉い人達が治めていた頃のむかし。
ミャークのとある町に、二人の兄弟がいました。
お兄ちゃんの名前は“ふさもり”といいます。
弟の名前は“いかり”といいます。
二人はミャークで一番のお家のおぼっちゃま。二人のおじいちゃんは、むかしミャークの島でみんながけんかばっかりしていた頃に、島を「とういつ」した「えいゆう」なんですって。
「立派なおじいちゃんにはずかしくないよう、おまえたちも立派になるんだぞ」と、二人のお父さんはよく言ったものでした。
ふさもりといかりの兄弟はとっても仲良し。二人は顔立ちもよく似ているんですよ。でも……。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
パタパタ、と草履の音をさせながら、お日様がふりそそぐ庭をいかりが走ってきます。
「いかり、走るんじゃないよ」
お兄ちゃんのふさもりが言いかけた、そのとき……。
いかりはとてっ、と小石につまづいて、べちゃっ、と顔から地面に転んでしまいました。
ふさもりが助け起こしてあげますと、いかりは目に一杯の涙をためて、ぎゅーっ、と唇をかんで……それから、わんわん泣き出してしまいました。
「ころんじゃったよう! ころんじゃったよう!」
まるでこの世の終わりみたいな様子です。ふさもりは「こまったなあ」という顔をしながら、一生懸命いかりの着物についた土埃を払ってあげています。
二人はいつも、こんな感じ。ふさもりはしっかり者のお兄ちゃん。そして、いかりは……ちょっと手がかかる子。
昨日だって、少し目を離したすきに、いかりはお勉強の部屋からいなくなってしまったんです。
ふさもりは真っ青になりました。今までも、いかりは何度もお屋敷からいなくなってしまったことがあるんです。ふさもりが血相を変えて探し回ってみれば、お屋敷からずうっと離れた森の、だあれも立ち入らない奥の奥の方でちょうちょを追いかけ回していました。
別の時は、言葉も通じていないのに外国の船乗りさんと仲良くなって、遠い海の向こうへ行く船に乗り込もうとしていました。
そういう時、ふさもりが血相を変えて「いかり! 何をしているんだ!」と止めますと、いかりはびっくりしたような顔をして、それからニコニコ笑って言うんです。
「だって、たのしかったんだもの」
そのごきげんな顔を見ると、ふさもりはくたくたっ、と体から力が抜けてしまうのでした。
さてさてそんな弟のいかりですが、今日は一体、何をそんなに息せき切って駆けてきたのでしょう。
「どうしたんだ、いかり?」
ようやく泣き止んだ弟にふさもりが話しかけます。
「あのね! あのね!」
ぱあっ、と顔を輝かせると、いかりは大きな声で言いました。
「ぼく、“おさかなせんにょ”に会ったよ!」
ぽか……ん、と口を開けているふさもりなんてお構いなしに、いかりはにこにこしています。
ふさもりは思いました。
『またいつもの、いかりのお話がはじまったぞ』
そうなんです。いかりはちょっと変わっていて、「森の中で、羽の生えたちっちゃなおねえさんに会ったよ」とか「今日は遠くから飛んできた鳥さんから都のお話をきいたよ」とか……夜になればお月さまやお星さまとおしゃべりをしていることもありましたし、うまやにいるお馬さんたちや、お屋敷にいる猫さんたちともお友達だということでした。
ふさもりは思います。
『弟はこんなふうだから、おかしな子だと思われて気の毒なことだ』
二人のお家はおさむらいさんのお家ですからね。本当はもっと“しっかり”“男らしく”していなくちゃならないんです。それにね、つい最近、二人のお父さんが亡くなったばかりでしたから……。お父さんは二人をかわいがってくれましたけれど、手のかかる弟のことが、特にかわいくて仕方がないようでした。
「ふさもり、お前がいかりの面倒をしっかり見てやるんだぞ」とお父さんはよく言ったものでした。そんなとき、ふさもりは「ちぇっ、なんだい」と思ったりもしましたけれど……。でも、やっぱりお父さんの言うように、立派にがんばるのが正しいのだと思い直すのでした。
いかりはお父さんによくなついていましたから、お父さんが亡くなってからは毎日さみしそうにしていました。お葬式から日がたつにつれて、いかりのお話はどんどん突飛になっていくようでした。
ふさもりは思います。
『父上が亡くなってしまった今となっては、私が家を、弟を守っていかねばならない。せめて兄である自分が弟を理解してやらねば。変わり者で友達のいない弟であるから、せめて寂しい思いをしないようにしてやらなくてはならない』
結局のところ、お月さまやお星さま、お馬さんや猫さんがおしゃべりするはずなんてないんですからね。心の中でふかーく深呼吸をしてから、ふさもりはいかりに静かに問いかけました。
「そうか、おさかなせんにょか。どこで会ったんだ?」
いかりは顔をぽっ、ぽっ、と上気させて答えます。
「海で! 海辺だよ! 波の上をおさかなせんにょが歩いていたんだ!」
……興奮して話し続けるいかりのお話を要約しますと。
いかりがいつものように海辺をお散歩していますと、真っ白な砂が波に押しやられてなだらかに盛り上がったあたり、お日様に照らされて白く乾いた流木やら、からからになった海藻の枝やらが絡まり合ったところ……そこでいかりはとっても不思議なものを見つけたんですって。
白い陽の光の下できらきら光る綺麗なもの……。それは真珠色に輝く細い糸の束でした。
あんまりきれいなものですから、いかりは思わずその束を拾い上げたんですって。そうしたら──もじゃ、もじゃ、もじゃ! 手の中の一掴みばかりのきれいな束はぐわん、ぐわん、と波打って、いかりの頭に絡み付こうとしたんですって!
「びっくりしたよう!」と言ってから、いかりは話を続けます。
いかりが頭に絡み付いた束を引っ掴んで、なんとか引きはがそうとがんばっていますと、海の方から声が聞こえてきたんだそうです。
「やめて、やめて! 乱暴なことはしないでください! それは私のかつらですよ!」
きゃっ、とおどろいたいかりが海の方を見ますと、波の上におさかなせんにょが立っていたそうです。
いかりが言うには、おさかなせんにょは顔がお魚で、体はふつうの人間なのだということです。不思議な、きれいな着物を着て、人間の言葉でしゃべるそうです。
おさかなせんにょは涙をぽろぽろこぼしながら、波間でかなしく泣いたそうです。
「私の大切なかつらが流されてしまった……砂浜の上に、太陽の下に! 私はおさかなだから陸には上がれない……」
しくしく、と肩を震わせるおさかなせんにょはあんまりにもかわいそうな様子でした。
いかりが頭の上に手を伸ばしますと、さっきまであんなに暴れていた真珠色の束──おさかなせんにょのかつら──はすっかりしゅん、としておとなしくなっていました。
いかりは頭からそっ、ときらきら輝くかつらをはずすと、うやうやしく両手に掲げて海に入って行きました。おさかなせんにょが信じられない、という顔でこちらを見ています。
いかりは静かに、おさかなせんにょの頭にかつらを載せてあげました。
すると──なんということでしょう。かつらはするすると伸びはじめ、おさかなせんにょの肩も、胸も越えて、波の上に真珠色のじゅうたんを広げて行くではありませんか。そして、いかりがびっくりしている間にも、おさかなせんにょの顔がきれいな女の人の顔に変わってゆくではありませんか。
いいえ、それだけではありません。いつの間にか、波の上に立っていたはずのおさかなせんにょの足は魚の尻尾に変わっていました。波間に覗く真珠色のきれいな尾びれがぴた、ぱた、と水面を打っています。
「なんとびっくり!」といかりがたまげておりますと、今やきれいな女の人に姿を変えたおさかなせんにょはやさしく微笑んで言ったそうです。
「人間の男、あなたは優しい心の持ち主ですね。あなたのおかげでかつらを取り戻すことができました」
きれいな女の人は、水かきのついた手でいかりのほっぺたを包みました。
「お礼に私の故郷に連れていってあげましょう。さみしいこともかなしいこともありません。毎日がとてもとても楽しいところなのですよ」
さみしいことも、かなしいこともないですって? それはどんなに素敵なことでしょう。いかりは元気よく「はい、連れていってください!」と言おうとしました。
……でも……。
「お兄ちゃんにもね、言ってからにしようと思って」
いかりはうつむいて、ぽつん、と呟きました。
ふさもりは小さくため息をつきます。
前にいかりがいなくなってしまった時、ふさもりはかんかんに怒ったんです。
「今度勝手にこんなことをしたら、いかり……お前とは絶縁だ!」とまで言ったんです。きっと、いかりはその時のことをおぼえているから、こんなことを言うのでしょう。
背中で手を組んで、もじもじしながらいかりは続けました。
「お兄ちゃんも、いっしょに行こうよ」
うつむいたままのいかりの声が、どんどん小さくなっていきます。
「さみしいこともかなしいこともないんだって。毎日がとてもとても楽しいところなんだって」
──そのとき。ふさもりの頭の中はちょっと別のことで忙しかったんです。
お父さんのお葬式の後にも、色んなお仕事がひかえていましたから。お墓のことをしてくれる人たちにお礼はいくら払おうかしら、とか、次のしんせきの集まりの挨拶では何を言おうかしら……とか。だから……そのときいかりがお父さんのお葬式の時と同じように、かなしそうにうつむいて、小さくちぢんで消えて行ってしまいそうだったなんて……気がつかなかったんですよ。
「いかり、私は忙しいんだよ」
ぽん、とふさもりはいかりの肩に手を置きました。
「お前が一人で行っておいで」
こんどのお話の舞台は、いつもお散歩に行く海辺のことでしたから。いつかのように遠くの森やら、外国に行く船やら……そんなことにはならないさ、いかりのいつものお話さ。ちょっと海辺を歩いて、鼻歌を歌って、そうすればいかりも気が済むさ……そんなふうにね、ふさもりは思っていたんですよ。
「お兄ちゃん!」
いかりはうつむいていた顔を上げました。
「ぼく、本当に行ってしまうよ!」
いかりの顔が、泣きそうになっていました。
「いっしょに行こうよ!」
赤ちゃんのように顔を真っ赤にして、唇をかみしめるいかりの肩を、ふさもりはやさしく二三度叩きました。
「私は忙しいんだよ。帰ってきたら話を聞かせておくれ」
ぎゅっ、と口を引き結んだいかりは目に涙を一杯にためて、ふさもりをじっと見て……それから、くるっ、ときびすをかえしました。
そのままこぶしを握りしめて、ずんずんと歩いて行ってしまいます。
向かう先は海辺です。いかりがいつもお散歩する海辺です。
「いかり、夕ご飯までには帰るんだぞ」
ふさもりの言葉に、いかりは返事をしませんでした。
そして……。
そして──いかりは、帰ってきませんでした。
夕ご飯の時間になっても、朝ご飯の時間になっても、帰ってきませんでした。
──いかりさまがいないぞ!
──いかりさまが帰ってこないぞ!
お屋敷の中は大騒ぎです。
ふさもりは真っ青になりました。
なんだか、とってもいやな予感がしました。
今までとは何となく、何かが違いました。
うまやにかけこむと、ふさもりはちっちゃなミャークのお馬さんにまたがって、ぱかっ、ぱかっ、と駆け出しました。遠くの森の奥の奥、いつかの昔にいかりが船に乗ろうとした港まで……どこも、かしこも探します。
「いかりー! いかりー!」
湿った洞窟の深く深く、暗い井戸の底の底を覗き込んで叫びます。
「いかりー! いかりー!」
いかりは……どこにもいませんでした。
もしかして台所の大きなお鍋のふたの下か、着物なんかを入れている物入れのなかにこっそり隠れているんじゃあないかしら……そう思って、お屋敷のすみずみだって探します。いかりがいつものように「だって、たのしかったんだもの」といって、にっこり笑って出てくるんじゃあないかしら……。きっとそうさ、ひょっこり笑って出てくるさ……まるでお祈りをするような気持ちで、ふさもりは一生懸命探し続けました。
でも……いかりは、どこにもいませんでした。
いかりとふさもりが一緒に海藻をとりに出かけた岩場にも、果物をとりに行った藪にも、はちの巣を落として蜜をとった森にも……どこにも、どこにもいませんでした。
それから……毎日、毎日、ふさもりはいかりを探し続けました。
草履が擦り切れるまで町中を歩きまわり、お馬さんが「もう疲れましたよう!」と悲鳴を上げるまでミャークの島中を探しまわりました。
そして、いかりがいつもお散歩していた海辺で、やっと一人だけいかりを見た、という人を見つけることができました。
それはあの日、ふさもりといかりが最後にお話したすぐ後のこと……いかりはざぶ、ざぶ、と透明な波をかき分けながら海に入っていったそうです。
「手をつないでいましたよ!」
海辺に住んでいたおじさんは、真っ赤な顔をさらに赤くして、一生懸命言いました。
「お魚の顔をした人間と手をつないで、海に入っていきましたよ!」
おじさんの息はお酒の匂いがしました。
ふさもりはそっ、とおじさんの手にお金をにぎらせてやると、うなだれてお屋敷に戻っていきました。
もう日が暮れかかって、ひんやり冷たい風が顔にふれていました。かなしい、かなしい秋が近づいてきていました。
ひひん……とちいさなお馬さんが気遣うように声をかけてくれました。
「慰めは不要だ」
ふさもりは沈んだ声で答えます。
「私が愚かだった……。弟を信じなかった、私の過ちだ……」
それからも……ふさもりはいかりを探し続けました。お屋敷の人たちがどんなに止めても、町の人たちが気の毒そうにふさもりを見やるようになってからも、ずうっと、ずうっと探し続けました。
「いかりー! いかりー!」
ふさもりは、今日も声を枯らして叫びます。
ふさもりはまた、いかりがおさかなせんにょと会ったという海辺に来ていました。
もう季節は冬でした。つめたい北風が我が物顔に吹き荒れ、寒さで死んでしまった巻き貝の殻が、打ち上げられた黒い海藻に絡んだまま転がっていました。さみしい、さみしい砂浜でした。
大粒の雨がぼつぼつぼつーっと降って、ふさもりのほっぺたを叩きました。
冬の風がびゅうう! びゅうう! と吹いて、ふさもりの髪の毛をぐしゃぐしゃにしました。
それでも、ふさもりはいかりを探し続けました。
だあれも……雨の音と、風の声と……それ以外はだあれも答えてくれない冬の海辺を、名前を呼びながらずうっと探し続けました。
いかりは春になっても帰ってきませんでした。夏になっても秋になっても。そしてまた次の冬になっても帰ってきませんでした。
ふさもりは毎日毎日、いかりを探し続けました。
やがて海辺のいそひよどりが「もうあきらめたら?」と歌いかけ、砂場の小さなかにが「やあ兄ちゃん、今日も無駄足を踏みにきたねえ」と声を掛けてくるくらい、探し続けました。
なあんにも見つからない帰り道、ふさもりはお馬さんとお話をするようになっていました。
「私の何がいけなかったのだ? 私は、せめて私だけはしっかりしていなくてはと……」
ひひん……と馬は控えめに返事をします。
「私は英雄・目黒盛豊見親の孫だ。弟はあんなだから……だから、私はせめて立派な……」
そこでふさもりは言葉を詰まらせます。“立派な”……何になればよかったのでしょう。いかりがいない。いかりがいない。それを打ち消すほど大切な、何があったというのでしょう。
「あんまり、自分を責めないでくださいね」
うなだれるふさもりに、馬が寄り添うように声をかけてくれました。
「みいんな、自分が一番正しいと思ったことをしながら生きているんですもの」
やがて、三年が経ちました。
この時代はみんなとっても早くに結婚しましたので、そろそろふさもりにもおよめさんをさがしましょうか……そんなお話がちらほら聞こえてきていました。でも、ふさもりはそういうお話を全部突っぱねていました。
なんといっても、いかりが帰ってきていないのです。いかりがいないのに、およめさんだとか、結婚だとか……みんな、何を言っているんでしょう。ふさもりは今日も海辺に向かいます。
もしかしたら、ひょっこり波間からいかりがあの笑顔で顔を出して、にこにこ笑いながら手を振って帰ってくるのではないかしら……。そんな風に、ふさもりは心の底で願い続けているのでした。
「でも、もう三年だものねえ」とさえずるいそひよどりを睨み付けますと、ふさもりは海の遠くに目を向けました。
そのとき──。
ぶくぶくぶくっ、と静かな海面に白い泡がはじけたのが目に映りました。
何かしら? とふさもりは目をこすります。なんだか見たことがない感じの、つぶつぶした泡です。
と……ひょこり! と真黒なものが海面に突き出ました。
大きなたこ! と最初は思ったのです。いいえ、それにしては大きさが違います。一抱えもあるような……丁度人間の頭くらいの……いえ、それはたしかに頭です。真黒な頭をして、口に長い黒い紐をくわえた化物が、海から顔を突き出しているではありませんか!
ふさもりは、口から心の臓が飛び出るくらいにおどろきました。でも、ふさもりはおさむらいの家の子です。逃げ出すわけにはいきません。今日はうっかりお屋敷に刀を置いてきてしまいましたが、得意の武術でやっつけてやる、とこぶしを握りしめて構えを取りました。
さあこい! と構えておりますと……化け物はゆっくりと岸辺に向かって泳いできました。そして、ざばーっ、と水を滴らせながら立ち上がります。そう、化け物には足、それに手もちゃんとありました。ですが、手足は頭と同じく真黒で、しかも背中には何やらぴかぴか銀色に光る筒のような物を背負っていました。そして、顔の上半分はおかしな透明なお面で覆われていました。やっぱり人間ではありません、海からやってきた化物です。
と……化け物の口から生えていた黒い紐が、ぽこん、と外れました。
ふさもりがぎょっ、としていますと、化物は真っ黒い胴衣のようなものと背中の筒をどすん! と波打ち際に落としました。それから、化け物はこちらに背中を向けてぺったん、ぺったん、と長い真黒なひれで砂浜に上がってきますと、足をぶん! ぶん! と振ってひれを草履のように砂浜に脱ぎちらかしました。そして、背中に手を回してなにやらごそごそしはじめます。
さては妖術でも使う気かしら、とふさもりが身構えていますと……ぴーっ、と化物の黒い背中が縦に割れました。そして黒い皮の下から出てきたのは……「あっ」とふさもりは息を飲みました。黒い皮の下から覗いているのは、人間と同じ色の肌。
それから……化け物は黒い頭をぺろっと脱ぎ、こちらを振り向きました。化け物の手が上がり、目のあたりを覆っていた透明なお面をゆっくりと外します。
その顔は……。
ああ、そうです。見まちがえるはずはありません。海水に浸されて髪の毛がぺったんこになっていましたけれど、まちがえるはずがないのです。その姿はもちろん……
「いかり!」
それはずうっと、ずうっと探していた姿、ずうっと、ずうっと会いたかった懐かしい姿でした。
それはいかりも同じだったのでしょう。全身びしょぬれのいかりは、いつかのようにぎゅっ、と口を引き結んで、それからくしゃっ、と顔を歪めました。
「お兄ちゃん!」
いかりはこけつまろびつしながら白い砂浜を駆けて、同じく駆け寄ってきていたふさもりの腕の中に飛び込みました。
海の中で冷え切ってしまったのでしょう、すっかり青ざめた肌をしたいかりはぎゅうっ、とふさもりに抱き付いてきました。ふさもりもいかりをしっかりと抱きしめました。ひんやりした体をなんとか温めてあげようと、ごしごしと背中をさすってあげました。
「お兄ちゃん! ……お兄ちゃん!」
ふさもりは言葉がありませんでした。それはいかりも同じようでした。三年間。長い、長い三年間でした。
しばらくそうしていてから、いかりはぱっ、と顔を上げました。いつかの時のように、顔がぽっ、ぽっ、と上気しています。
「ぼく、竜宮に招かれていたんだよ!」
なつかしいいかりの声です。懐かしい、一生懸命ないかりのしゃべり方です。
「おさかなせんにょが、“なななぼーと”に乗せてくれたんだよ! “なななぼーと”はね、波をかき分けて進む、漕がなくても走る船なんだ!」
「そうか、そうか」
ふさもりはただただ、うなずきます。
いかり、いかり……いつもどこか遠くを見ているいかり。
「“すいじぉーばいく”にも乗せてもらったんだ! 波の上を走る馬なんだよ! あんなものが竜宮にはいるんだねえ!」
「そうか、そうか」
いかり、いかり。ちょっと手が掛かって、変わっていて、そして大切な弟のいかり。
「それから、“じゃくじー”にはいったり、“てぃーう゛ぃー”を見たりしたんだ。竜宮はすてきなところだねえ! 住んでいる人たちは言っていたよ、『ここは“ばぶる” 』なんだって」
「そうか、そうか、よかったな……」
うつむいて肩を震わせるふさもりに気がついて、ようやくいかりがあわて始めました。
「お兄ちゃん、なんで泣いているの? ぼく、何か悪いことをした?」
おろおろするいかりを、ふさもりはもう一度しっかりと抱きしめました。
「いいや。お前が帰ってきてくれて、私はうれしい」
ちいよー、ちいよーといそひよどりが楽しそうに歌っていました。
お日様の光が、白い砂浜をやさしくあっためていました。
やさしい沈黙の後に、いかりはそっとふさもりの腕から身をはなしますと、きらきらした目でふさもりの顔をのぞきこみました。
「お兄ちゃんに見せたくて、習ってきたんだ! 竜宮の踊りだよ!」
いかりはぱたぱたぱたっ、と砂浜を駆けますと、ぴょんっ、と大きな岩の上に飛び乗りました。そのまま、どこからか色鮮やかな羽扇を取り出します。
青い空を背景に、ぱっ、と真っ赤なふわふわの羽扇が広がりました。いそひよどりたちがびっくりした声を上げます。
いかりが踊りはじめます。小高い岩の上で楽しそうに、真っ赤な羽根扇をひらり、ひらりと振りながら。
あっけにとられていたいそひよどりたちも、やがて楽しそうに歌い始めます。
── 踊りましょうよ 踊りましょう 命は短い 踊りましょう
遥かな未来へ紡ぐために 永遠の海を踊りましょう ──
楽しそうに踊り続けるいかりを、ふさもりが泣き笑いで見ています。
この踊りは形を変えて、ずうっと、ずうっと後の時代まで伝わっているんですって……。
むかーしむかし、遠いむかしのミャークの島のお話です。
〈おしまい & 本編に続く……〉
ご興味ありましたら、本編:長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」もどうぞ……。