第一話 霧の中にて目を覚ます
「生きてる?」
目覚めて最初に口にした言葉は疑問形だった。
だって自分はあんなに派手に爆散していたのだから生きている筈が無いという確信めいた認識がアスト・フェアーにはあったのだ。
ゆっくりと辺りを見渡してみる。
「霧……かな」
白い靄の様なものが周囲一帯を埋めつくしており、心なしか肌寒い。そして湿気が凄い事になってる。
うへぇと思いながら目を凝らしていると驚く事にとても良く知る人物が倒れているのを発見した。
「リリスさん!?」
急いで駆けより、伏した相棒の姿を確認する。
閉じられた切れながらの瞳は相変わらず惚れ惚れする程美しいが、そんな場合ではない。
アストが必死に呼びかけ、揺らし、最終的に人工呼吸的な何かを敢行しようかと必死に悩んだ。
長い付き合いになるが別に恋仲というわけでもあるまいし、でも一大事かもしれないから早く決断しないとうーんうーん。
それはまさに女を知らないチェリー君ならではの初心な反応だったがそうこうしている内に件の人物リリストラ・ラグナマキアはもぞもぞと動き出してしまった。
「う……みゅ。アス……ト?」
「おはようございますリリスさん。なんで疑問形?」
「いや、だってお前、自分の姿を見てみるのだ」
リリスの指示に従い自分の両手を見つめてみるとそこには見知った白肌――――ではなく、黒々としたメタリックカラーの手甲がこんにちわをしていた。
「これって……もしかしなくても……『禍焉』?」
「だろうな」
「えっ、えぇぇえええええええええっ!?」
アストが驚くのも無理はない。
彼の認識ではつい先程、目の前で気持ちよさそうに伸びをしているリリスと共に命を賭けて消滅させたのがこの『禍焉』である。
ただ在るだけで世界を消し去る程の呪いを放つ永終の黒鎧『禍焉』。
これが未だ自分の肉体として存在するという事は、つまりアストとリリスはしくじったという事であり、ならば世界は未だヤバいということで……。
「あわわわわ、あわわわわ、リリスさんどうしましょう。僕達失敗しちゃったんですよ。まずいですよまずいですよ世界滅んじゃいますよ」
これ以上ない程錯乱しているアストをたっぷり堪能した後、リリスは突然「てい」とアストの黒い兜をチョップした。
「何するんっすか!?」
「落ち着くのだアスト。我々が失敗したと決めつけるのは、いささか早計だぞ」
「てい、てい、てい」とリリスに何度もチョップされてアストもその違和感に気付いた。
「リリスさん……僕に触れてる?」
「左様。先に言っておくが、あの時のように特別な術は使っていない。正真正銘素手の状態でお前の頭を叩いている」
それは本来であればあり得ない事だ。
永終の黒鎧『禍焉』はあらゆる存在を根絶する最低最悪の災厄である。
あの時のリリスの様に『禍焉』と相対する程の莫大な生命力があればまだしも、今の彼女はアストから見ても普通の状態だ。
(そもそも僕がこうして自由に動けている事自体がおかしいしなぁ)
『禍焉』があらゆる存在を根絶する災厄の鎧である以上、その呪いの影響を最も被るのが他ならぬアストである。
あの時は憑依術師の失われた秘法を使い、アスト自身が『禍焉』と同化する事で半年間の猶予を得る事に成功したわけだが、それにしたって日々自我を殺され魂を侵され、常に死への衝動に狂いながらの苦痛地獄にさい悩まされ続けていたのである。
しかし今は全然苦しくない。
久方ぶりに思考が溌剌としていて、死にたいとか殺したいとかいう危ない衝動も一切ない。
完全にシラフである。
「おっかしいなぁ、色々と腑に落ちない事だらけですよ」
「いや、一つだけ全ての現象に説明をつける理屈があるぞ」
「というと?」
尋ねられたリリスは右人差し指をピンと立てながら言った。
「きっとここは死後の世界なのだ!」
◆
死後の世界というリリスの案にアストは素直に納得してしまった。
だってそうだろう。
お互いに命を捨てた作戦を採って盛大にドンパチしあった末に、最後は見事だ大爆発だ。
生きている方がおかしい状態である。
リリスの言うように自分たちが既に死んだと定義する方が遥かに現実的だ。
「『禍焉』も一度壊されてセーフティ状態に戻ったのか、あるいは既にここが死後の世界だから大人しいのか……どちらにせよリリスさんの意見が正しそうですね」
同化したアストだからこそわかる話だが、『禍焉』の根底にあるのは万物万象への際限なき敵意であり、殺意である。
であれば、殺す対象のない……といようり全てが死んでいる死後の世界では、流石の『禍焉』も大人しくしているのかもしれない。
(まぁ、お前がそんな殊勝なたまだとは思えないけどね)
それでも、アストはたまらなく嬉しかった。
いつ暴発するかわからない危険があるとはいえ、あの『禍焉』が大人しくしてくれているのだ。
久方ぶりの自由、あの地獄を味わったアストにとってはなによりも得難い幸福だった。
「しかしまさか、死んでもお前とつるむ事になるとはな」
「いやぁ、僕らの腐れ縁もここまで来れば大したものですよ」
かれこれ十年以上もの長い年月を共にしてきたアストとリリスであるが、流石に死んだ後もその縁が続くとは二人とも思っていなかった。
腐れ縁というのも中々馬鹿にできないものである。
「して、アスト。これからどうする?」
「まぁここでぼうっとしているわけにもいきませんからねぇ。とりあえず散策してみましょうか」
「うむっ! 新しい冒険の始まりだな」
そうして歩きだしてみたのはいいものの、二人を待ち受けていたのはただただ無為な時間だった。
見渡す限り全てが霧で、人も街も影すらない。
真っ白で冷たい空気だけが支配する不思議な世界。
「何でしょうねここは」
歩き始めてから体感で二時間程経った頃アストはぽつりと呟いた。
「何って、さっきも言っただろう。おそらく、ではあるがここは死後の世界とかそういう類の場所なのだろう」
「えぇ、そこはいいんです。僕らはあの戦いで死んで死後の世界に招き入れられた。でもその死後の世界というのは具体的にどこを指しているのでしょう。古代より伝わる楽園エリュシティア? 罪を背負った者が堕ちる煉獄アザート? 少なくとも僕はこんな霧だけの場所が死後の世界だという伝承は聞いたことはありませんよ」
更に言えばとアストは口の無い顔で饒舌に喋る。
「僕とリリスさんがこうやって再開できた、加えて壊したはずの『禍焉』が安全な状態で再生しているという明らかな作為が働いているにも関わらず、それを行った誰かは何もしてこない。これっておかしくありません?」
「ふむ。歓迎するにしろ敵対するにしろ、なにもアクションがないというのは気持ち悪いものがあるな」
「でしょ? 僕達を招き入れた方は一体なにがしたいんでしょうね」
そんな事を話し合いながら二人が歩く事さらに数時間、変化の無い景色の終焉は、一切の前触れ無く唐突に起こったのだった。
「なん……だ、これは」
呆然とするリリス、驚きのあまり声を失うアスト。
彼ら二人の反応は無理らしからぬものだった。
先程まで、彼ら二人の視界には霧しかなかったのだ。
それが今、一切の兆候もなく一瞬で、彼ら二人の周囲は無数の建物の影で覆い尽くされているのである。
「なぁアスト。我々は幻覚でも見てるのか」
「その気持ちすごくよくわかります。……こんなの幻術や集団催眠の方がまだ現実的だ」
まるでスイッチか何かを入れたかのように突然現れた大小様々な建物の影を見上げながら二人は各々正気を疑った。
無理もない。
彼らが今目の当たりにしている光景は異様も異様。
大きな建物の影だけがそびえ立ち、しかしてその全てに実体のない影だけの街。
ここは恐るべきことに建物の影だけが建っているのだ。
白き霧と建物の影だけで構成された世界、それはとても幻想的であると同時にどこかうすら寒さい印象を二人に与えた。
「まるで残骸の様だ」
屹立する建物の影に触れながら、リリスは街の感想を呟いた。
「在ったものがなくなって、それすらわからず影だけが残っている。触れてもなにも感じぬ影だけがここには在る」
「死後の世界というのならまぁそうなのかもしれませんけどね」
肉体が滅び、存在の残骸だけが残る場所――――それはまさにアストの思い描いていた死後の世界そのものであった。
「とはいえ、建物の影が見つかった以上、どこかに本物の建物があるかもしれません。も少し気長に探してみましょうか」
「うむ!」
そうして二人は霧と影の街の探索に乗り出した。
当てがあるのかといえば全くないけれど、今の二人にはそうする他なかったのである。
◆
彼らがその建物を見つけたのはそれから少し歩いた後の事だった。
影では無い、実体のある建物を見たのは久しぶりの事だったので二人はえも言えぬ感嘆の溜息を漏らして喜んだという。
「随分と大きな建物だなぁ」
「周りが影だらけな分余計目立ちますねぇ」
大きな館だった。
もう少し大きければ城と形容しても良いくらいの豪奢な建物で、白と黒を基調としたシックな色合いは、ちょっぴり何かでそうな雰囲気すら醸し出している。
「とりあえず入るか」
「誰かいるといいですけど」
「もしかしたら人じゃなくてお化けが出たりしてな!」
自分たちも似たようなものだろうとアストは無性につっこみたくなった。
そんなこんなでゆるい会話をしながら二人は館の正門を通り、屋敷の周囲をうろついてみた。
途中、草木の無い庭園や、水の出ない噴水などを見かけたが、その他は特に何もなく立派な外観の割には何もなくて二人はちょっぴりさびしくなったという。
そして館の入口に向かった所でアストは驚愕の出来事に見舞われた。
「ド、ドアが」
「ひ、開いた」
傍から聞けば馬鹿な会話に聞こえるかもしれないが、この時のアストとリリスは至って真剣だった。
なぜならばドアは勝手に開かない。
二人が近づいたタイミングで開かれたという事は、つまり誰かもしくは何かがいる公算が非常に高いという事だ。
このよくわからない世界で知性体らしきものをまだ一度も拝んだことのない二人にとって『ドアが開いた』という出来事は、故にとても大きな意味を持っていたのである。
そうしてドキドキワクワクハラハラと何か起こるのを期待していた二人の気持ちは
「やぁやぁお二人さん。こうして会えるのを待ちわびていたよ」
しっかりと叶ったのであった。
館の中から現れたのは桜色の髪をサイドテールでまとめた見目麗しい少女。
小柄な外見ながらどことなく抜け目の無さそうな雰囲気を醸し出しており、直感的な警戒心を二人に与えた。
「すいません。旅の者なのですが故あってこの世界に迷い込んでしまいました。一晩泊めてくれ等と図々しい事は申しません。もし貴方がこの世界について詳しいのであれば、少しだけでも僕達にご教授していただけないでしょうか」
嫌味な程恭しく尋ねるアストに、少女は朗らかな笑みで言葉を返した。
「そう畏まるなってアストっち。心配しなくても二人まとめて館に泊めたげるからさ」
「失礼。どこかでお会い致しましたか」
「いんや。アストっちともリリスっちとも初対面だよ」
どうということなく少女は二人の名前を呼んで見せた。当然彼らの警戒心は高まっていく。
「貴方は」
「ヨミってよんでちょ」
「……ヨミさん。貴方はどうして僕らの名前を?」
「知ってるのかって? そりゃぁ、まぁ知ってるよ」
そう言ってヨミと名乗った少女は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「なんせ私は神だからねぇ」