プロローグ 最初からクライマックスバトル
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比喩ではなく、ソレは闇だった。
黒く、暗く、不吉で邪悪な深淵の結晶。
空に漂い、死の業病を絶え間なく撒き散らすソレは、かつてアスト・フェアーと呼ばれた憑依術師の成れの果てである。
「ウゥウ、グルルルヴゥゥウウグワァアアアアアアアッ!」
辛うじて人型を保っている漆黒のソレが苦悶にも似た咆哮を上げる。
瞬間、空は赤く爛れ、大地は塵と化し、海は見る見る干上がった。
ソレにとって吐息よりも当然な、けれど生きとし生けるものには絶対的な終焉である『死』が瞬く間の内に広がっていく。
辺り一面に広がる地獄の光景。
しかしこの惨禍は、氷山の一角に過ぎない。
これでもまだ、事態は最小限に抑えられているのだ。
尊き憑依術師が命を投げうってソレの大元と同一化しているからこそ、世界は終わっていないのである。
ただ在るだけで世界を消し去る程の呪いを放つ永終の黒鎧『禍焉』。
とある狂人の手によりこの史上最悪の兵器が起動した時点で、本来なら何もかもが滅んでいた筈だったのだ。
これを食い止めるため、アスト・フェアーが自分自身の命を『禍焉』に憑依させる事でどうにか滅びの流出を食い止めているのが現状である。
時間にして百八十五日。
彼が自らの命と魂をすり減らし、『禍焉』の呪いを抑え続けた成果の全てだ。
アストが身を呈し、世界を滅ぼす死の鎧を一身に引き受けた値千金の時間――――だがそれも、終わりが近づいていた。
死の咆哮と共にソレの姿が急速に人の姿からかけ離れていく。
羽が生え、触手が伸び、尾がうねりを上げ、爪牙が身体中のいたるところから萌芽する。
既にアストの命が限界を迎え、ソレの主導権が『禍焉』に移りつつあるのだ。
このままでは半刻も迎えぬ内に彼の魂は消え、ソレは『禍焉』として完全に目覚めてしまう。
そうなれば世界はたちまち死の呪いに侵され、万物は例外なく滅びるだろう。
偉大なる憑依術師の死は無駄に終わり、世界は間もなく無に帰る。
「あぁ、全く。そんな結末はくそくらえだ」
死の坩堝と化したソレの耳にどこまでも涼やかな音色が聴こえた。
次いで紅い死の空をかき消すほどの鮮烈な光がソレの周囲に炸裂する。
(ようやく、きてくれた)
空を駆ける一条の光を見て、ソレに残った僅かなアストの部分が安堵した。
視界に映る見知った姿。
世界を旅する冒険家として、共に数多の苦難を乗り越えてきた無二の相棒が閃光をまとって近づいてくる。
彼女だ。彼女が来たのだ。
磨かれた黒曜石の様な煌めきを放つ濡羽色の髪、大地に降り注いだ新雪の如き柔肌に一切の瑕疵なき曲線美、ルビーレッドの瞳は天上の宝玉を錯覚させるほど美しく、凛々しさと淑やかさを兼ね備えた相貌はさながら美の女神の様だ。
だがアストは知っている。
彼女は見た目ほど淑やかでも美しくもない。
結構頑固だし、乱暴だし、女子力の低さにだって定評がある。
朴訥で、苛烈で、常に前を向き続ける勇気を持った彼女。
全部知っている。良い所も、悪い所も、駄目な所も、チャーミングな所も。
「待たせたな、アスト」
ソレが彼であった時、何度も聞いた彼女の挨拶。全く、いつだって彼女は僕を待たせるんだから。
「そウ、長くはモチませんヨ」
「喋るほどの元気があればまだ大丈夫だろう」
んっ?と笑う彼女の顔には世界の敵へ向ける険しさなど微塵もない。
こんな姿になってもまだ、彼女はソレを彼として捉えているのだ。
「誰かサんがド派手に登場してきタモンデ、僕のアンミンがさめちゃったんデすよ」
「どうしたどうした。少し見ない内に随分不規則な生活を送っていたようだな。その様子では風呂にもロクに入っていないのではないか?」
「えぇ生憎ネ。お陰でこんなに真っ黒になってしまいマシタ」
「言うではないか」
「そっちこソ」
揃えたかのように重ねあう二人の哄笑。
得も言わぬ心地よさをアストはしみじみと噛みしめていた。
先程までほとんど消えかけていた自我が嘘のように目覚めていく。
当たり前だ。
こんなにもうるさくて、眩しくて、温かかったらきっと千年の眠りだってたちどころに解けるだろう。
本当ならもっと話したかった。
伝えたい想いがあった。
けれどそれら数多の想いを心にしまって、アストは努めて冷静に状況の進展へと乗り出した。
「リリスさん。ここに来たという事は僕を壊ス準備は出来ているんですね」
尋ねられた彼女――――リリストラ・ラグナマキアは自身の頭上にある双角を指した。
「問題ない。『禍焉』の死を相克する為の莫大な御霊、かの八大龍王その全てより賜って参った。彼らの崇高なる魂は今、私と共にある」
世に名高き龍族の頂点、八大龍王の御霊を宿す等、本来であればどのような生物であっても不可能な偉業である。
それは『最後の真龍』と呼ばれる彼女であっても例外ではない。
『禍焉』の死を打ち消すほどの生命力が一個人に背負えるはずがないのだ。
「どうやってソレだけの力を?」
「お前と同じだよ、アスト。足りない力は自分の命で補った」
言われてアストは気づく。
輝く彼女の身体から少しずつ湧きあがっていく小さな粒子。
この光一粒一粒が彼女の命そのものなのだ。
「死ぬ気デスか?」
「死ぬ気ではない。私は死ぬのだ。『禍焉』を滅ぼす為の御霊を運ぶ装置としてこの命は尽きる」
「貴方が犠牲になル必要など――――」
「必要ない、等とは言わせんよ。第一、元を正せば先に自分を捨てたのはアストの方だろう? そんなお前に私の行動をとやかく言う権利などないはずだが」
「僕は貴方やみんな二生きていて欲しかったから――――!」
アストの叫びをリリスはふるふると首を振って否定する。
「お前がそう思ってくれたのと同じように、私や皆もお前を犠牲にしたくなどなかったのだよ」
無論、リリスとてアストがとった行動について間違いだと断じる気などさらさらなかった。
半年前に『禍焉』が起動した瞬間、咄嗟の機転でアストが永終の黒鎧と同化していなければあの時点で世界は滅びていたのだ。
更にはこの半年間、アストが自分の魂を犠牲に『禍焉』の活動を抑えていなければ、やはり世界は亡くなっていただろう。
アストが命を捨てた瞬間、アストが魂をすり減らし続けた時間――――その全てが今の世界に繋がっている。
滅びかけでも滅んでいない。まだ明日が残っている。
その希望をリリスは無駄に死たくなかったのだ。
「それにな、アスト。私は少し考えたのだ。もし、もしもだぞ? もしも死後の世界というものがあるのだとしたら私は是非ともそこへ行ってみたい。更に言えばお前なんかに先を越されたくはないのだ! この私を差し置いて、お前が未開の地へと旅立つなど言語道断だ。そんな抜け駆け絶対に許さないぞ!」
それはとても見え透いた強がりで、けれどとても彼女らしい啖呵だった。
(あぁ、もう――――)
敵わないなぁと肩を震わせ、小さく天を仰いだ。
「だったらちゃっちゃと救っちゃいましょうか。正直僕も興味があります死後の世界」
「だろう? まだ見ぬ珍味、まだ見ぬ宝、まだ見ぬ冒険。そこに至る可能性があるというのなら幾らでも無茶をするのが我々冒険家だ」
「死後の世界だったらこちらへ戻ってくる方法もあるかもしれませんし?」
「更なる未知への扉が広がっているかもしれない」
「で、あれば冒険家として」
「調査せずにはいられまい!」
強がっている内に段々と本気になって、ついついテンションが上がってしまう二人の阿呆。
これが二人の関係だった。
どちらかが沈めば必ずどちらかが引っ張って、喧嘩して、無茶をして結局最後は次の冒険の事ではしゃいでしまう筋金入りの冒険馬鹿。
それが二人だった。
そうやって色んな困難を共に乗り越えてきたのだ。
「これで終わりじゃありませんよね」
「当然だ。私達の冒険はまだまだ続いていく」
「そうですね…………でも、一応区切りというか礼儀として言わせて下さい」
だから今回だってきっと大丈夫だと信じながら、それでも悔いを残さぬようにアストは言葉を紡いだ。
「ありがとう。あなたと出会えて、本当に良かった」
相棒のらしくないストレートな言葉に、リリスは少しだけ頬を赤らめる。
けれど直ぐに挑戦的な瞳でにやりと笑い、堂に入った声で感謝を返した。
「私もだアスト! お前と出会えたことが、我が人生最大の誉れだった!」
そうして二人はしばらくの間くつくつと笑い、示し合わせたように構え合った。
「それじゃぁ、まぁサクッと救っちゃいましょうか世界」
「うむ。手こずらせるなよアスト。全力で加減しろ、一切本気を出すな」
「どうでしょうねー、さっきまで程じゃありませんが頭がぼんやりするし、気を抜いたら直ぐにでも世界滅ぼしちゃいそうです」
「やれやれ。全く、そんな物騒な姿になっても中身はちっとも変わらないな」
流れるような会話の中でリリスはゆっくりと戟を突き出し
「いや、本当に身体の自由が利かないんですよ僕。だからちょっとシャレにならない位抵抗するかもしれませんが怒らないでくださいね」
ソレは化物の身体から物騒な暗闇の刺を無数にひり出した。
「では」
「参ろうか」
最後は短く言葉を区切り、二人は世界を救うために激突した。
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かくして始まった二人の戦いは半刻程続き、最後に盛大な爆発を伴って終結した。
これを以て世界に災厄をもたらし続けた永終の黒鎧『禍焉』は完全に消失する事となった――――尊い二人の犠牲を払う事によってではあるが。
戦いが終わり、空が明けた頃現場に到着した観測部隊が見たものは、視界を覆い尽くさんばかりの巨大なクレーターのみであり、必死の捜索も空しく二人の姿は見つからなかった
身を以て『禍焉』を封じ続けたアスト・フェアー、そして彼の相棒であり、己が魂を燃やして『禍焉』を討ったリリストラ・ラグナマキア。
散って言った彼らの物語は世界を救った英雄として後世まで語り継がれる事だろう。
彼らの命は天へと還ったが彼らの存在は永遠となった。
故に彼らには――――
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『故にアスト・フェアー並びにリリストラ・ラグナマキアの両名には、以上の偉業達成を称え【スローンズ】の資格を授与すると共にダンジョン×ダンジョンズのユニットとして出場する権利を贈呈するものとする』