逃走
卓郎は息をひそめてトイレの個室に隠れていた。
邦夫がトイレを出た後ですぐ個室に入ったせいか、邦夫のにおいが残っていた。
とてつもなく不快だった。そんな時、大勢の駆け足の音と、怒号、悲鳴、破裂音が廊下から響いた。
トイレの入り口のドアも乱暴に開けられた音がして、人が入ってくる気配がした。
卓郎はあえて鍵をしていなかった。
彼のいる個室のドアは開いており、彼がいたのはその扉の裏側であった。
彼の天性の危険察知能力が、瞬時にこの判断を下した。
そして、それはこの状況下において最善の行動だった。
「2階、東側階段側の男子トイレクリア!!」
男の声がトイレにこだまし、足音は遠ざかっていった。
「いったい、何が起きてんだよ…!?」
彼は精一杯考えたが、この状況を把握できなかった。
ポケットの中に入っているスマートフォンで、とにかく助けを呼ぶ。
彼が最初に思いついた行動だった。
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邦夫はズボンの左ポケットに入っているスマートフォンを、教壇の上の男に気付かれないよう、慎重に取り出そうとしていた。
彼の席は、教室に縦に6つ、横に6列、計36席ある中で、窓際から2列目の4番目の席だ。
邦夫の頭脳は、男たちとの距離、角度、目線の高さなどを瞬時に把握し、その死角を計算した。
ポケットからスマホを出すことは危険だった。
おそらく、発砲は免れない。
それはすなわち、死を意味した。
幸いにも、彼のスマホは左側のポケットにある。
邦夫はポケットに左手を忍ばせ、経験と勘を頼りに画面を見ることなく操作をし始める。
男たちにはまだ気付かれていない。
その証拠に、教壇の上のリーダー格の男はほかの仲間に指示を出しているし、入り口付近の男たちは無線で連絡を取り合っている様子だ。
「これなら…!!」
邦夫の指先は、小さな闇の中で少しずつではあるが、確実に警察への通報へと進んでいた。
(電話、…ダイヤルキー、…、1、1、…0、…、発信!!!)
「トゥルルルル…」
発信音が指先を通じて邦夫に伝わり、彼は企みの成功を確信した。
その時!
「ポッケから手を出しな。」
邦夫の頭に銃口が突き付けられた。
邦夫は指示に従うほかなかった。
(何故だ!?完全にやつらの死角をついたはず!計算に狂いはない!俺は数学でインド人を超えたんだぞ!!!)
一度は成功を確信しただけに、もくろみを看破されていた絶望と恐怖に、邦夫は驚愕の表情を隠せなかった。
「いくらおれ達の目を盗んで警察に通報しようとしても無駄だ。」
彼の心の叫びをまるで悟ったかのように頭に銃口を突き付けたまま、邦夫のポケットからスマートフォンを取りだし、終話ボタンを押した。
「次はねぇぞ」
そういうと男はそのままスマホを持ち去った。
「こっちにもいるぞ!!!」
廊下から男たちの叫び声がしたかと思うと、彼らは東側階段のほうへ走り出していた。
(そうか、携帯電話の電波をサーチしていたのか!)
邦夫は自身の警戒レベルの低さに下唇を噛んだ。
(いや、待てよ。)
邦夫は落ち着きを取り戻し、そして頭にある疑問がよぎった。
(どうして渋谷丸は撃たれて、俺は撃たれなかった…?)
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「こっちにもいるぞ!!!」
叫び声とともに、男子トイレへと数人が走ってくる。
「とにかく!!早く湖が丘高校に助けに来い!!!!」
卓郎は警察に怒鳴りつけ、トイレの個室から飛び出した。
それと同時、入り口の扉が激しい音を立て蹴破られた。
「動くな!!!動けば撃つ!!!」
男の警告に、卓郎は死を覚悟した。
入り口から個室の中以外はすべて見渡せるほど、縦に長く、幅が最低限のこのトイレでは、逃げ場はない。
扉と正反対に位置する窓、以外。
しかし、その窓から脱出するには卓郎のいる位置からは2メートルほどはある。
銃を持った男たちに背を向けて窓から飛び出す間に、きっと撃たれてしまうだろう。
(どうする、どうする、どうする!!!)
刹那、彼の脳にせん光が走った!
「あ!!!後ろ!!」
卓郎は彼らの後ろを指差した。
「早くこっちへ来い。さもなければ撃つ。」
(引っかかるわけないか)
彼はあきらめようとした瞬間、男たちの左の掃除用具入れの扉がギギギと音を立て開き始めた。
(今だ!!!)
卓郎は決死の覚悟で窓へ走った!!!
掃除用具の扉が開いたのは偶然だった。中のほうきの入れ方が雑だったこと、扉のしまりが元から悪かったことなど、運が味方した。
しかし、これらの奇跡とも呼べる偶然も、トイレ掃除当番が、卓郎だったことを鑑みるに、半ば必然であった!
一瞬の不意を突かれた男たちの照準は逃げる学ランの男を狙うことができなかった。
数発放たれた銃弾は、便器の一部を破壊し、床のタイルを粉々にはしたが、標的に命中することなく、それを見失ったのだった。
時刻は9時25分。
卓郎はトイレの窓から転落した。
つづく