第三話
『お父さんのこともお母さんのことも好きだった』。
家に帰った後も、千晴の言葉が耳について離れなかった。
そうだ。僕も昔はそんな気持ちを持っていたような気がする。父親に認めてもらいたくて、母親に好かれたくて、ただそれだけのために努力して、今の自分をつくってきたのだ。どんなに頑張っても、僕は親にとっての子供でしかないのに。
僕が何でもできるようになればなるほど、親は僕の存在を持て余すようになった。そして僕自身も。
「兄ちゃん」
我に返った僕は、いつの間にか貴志が部屋に入ってきていたことに気付いた。
「ご飯だって」
「あ、あぁ。今行く」
他人のことなんか分からない。僕だって僕が何なのか分からないでいるんだから。何ができるのか何をしたいのか、そもそも自分が居るべき場所さえも。
「あ、兄ちゃん」
一足先に階段を下りていた貴志が、急に思い出したようにぐるりと振り返る。
「明後日のお祭り、一緒に行けるよね」
「祭り?」
そういえば祭りのことなんかすっかり忘れていた。
「どうかな。雨が止まなかったら祭りはできないから」
僕にとっては、その方が好都合なのだが。
「えーッ、そんなのやだー」
「やだって言われても」
僕にはどうしようもない。貴志の大声が台所の母親にも聞こえたのか、皿を並べながら軽く貴志を叱った。
「わがまま言わないの。お兄ちゃん、困ってるでしょ。それにお祭りなら来年もあるでしょう」
「だって兄ちゃん、あんまり帰って来ないんだもん」
何気に痛いところを突かれたような気がする。子供だから他意はないのだろうが、両親の前で、こうもはっきりと指摘されるとは思っていなかった。
何となく居心地の悪さを感じながら椅子に座った僕に、それまで新聞で顔を隠すようにしていた父親が珍しく口を開いた。
「…東京はどうだ」
三文ホームドラマかとツッコミたくなるような言葉に、僕は思わず吹き出しそうになる。寸でのところで笑いは避けたが、それでもいつもとは違う笑顔になってしまった。
「いいところだよ。便利だし」
「…大学は?」
「ちゃんと勉強してるよ」
「そうか。…卒業したらどうするんだ」
「僕は…」
卒業したら。
そう明確に示されて、僕は言葉に詰まった。
自分にはもっとやりたいことがある。漠然と、そう思っていた。でも家を出て、町を出てもその答えは見つからなかった。
ただ、ここから逃げ出したい。
それを目的にしていた僕には、その先のことなど具体的に考えられるはずもなかったのだ。
「まだ、決めてない」
口からでまかせを言うわけにもいかず、正直に言う。
「こっちに帰ってくるかも、分からないし…」
「ええー!!」
貴志が驚いたように叫んだ。
「そうか。まあ、おまえはしっかりしてるからな。自分がやりたいと思うことをしなさい」
いつものようにどうせ家がどうの会社がどうのという話になるだろうと思っていた僕は、思いがけない台詞に面食らってしまった。
父さんはそれ以上なにも言わなかったが、母さんのように僕がどうして帰ってきたのかと思っているだろう。一緒に暮らしている頃は、父の跡を継ぐと名言したことはなかったが、表立ってそれを否定することや反発することはしなかった。僕には、それがよけいな煩わしさを生むように思えたから曖昧にしていたのだ。父親に認めてもらいたい、母親に嫌われたくない、そんな気持ちが中途半端な今の状況を生んでいるのだろうか。
やりたいことをしなさいと言った父の言葉に抵抗はなかった。しっかりしているから、という両親の言葉は、放任なのではなく信頼してくれているのだと今は素直に受け取ることができた。
次の日は、昨日までの雨が嘘のように晴天だった。貴志はすっかり僕と祭りに行く気でいるが、地面が乾いてないせいか、神社に祭りの準備をしている様子はない。ついて行くと言って聞かなかった貴志を、何とか説得して来たが、境内にも桜の下にも彼女はいなかった。別に会う約束をしていたわけではなかったが、昨日聞いたあの言葉が気になって、ここに来ずにはいられなかったのだ。変な話だが、ここまで来ていながら僕は、千晴がもうここには来ないような気がしていた。
桜の枝先のつぼみは、もう自然に目につくくらいになっている。千晴は明日と言っていたが、今日中には無理だろう。
いいかげんバカバカしくなって帰ろうと踵を返した僕は、境内に立ってこっちを見ている彼女を見つけた。
「なんだ。やっぱり桜、見に来てたんじゃない」
「…別に」
「じゃあ、見送りに来てくれたの?」
「…?」
僕には何のことだか分からなかった。
「言ったでしょ。私、どっちかの娘になるんだって」
見れば、服はいつもとあまり変わらないが、荷物の一部らしい大きな鞄が鳥居の側に転がっている。
「花、やっぱり咲かなかったね」
千晴は湿った木の肌に手を当てて、笑った。
「残念。今日咲いてたら、東京まで持っていこうと思ってたのに。やっぱりこの木はここにあるのがいちばんなんだよね。…私も」
こんなときになっても、千晴の笑顔には曇りがない。僕にはそれが余計に腹立たしいことのように思えた。
千晴は名残惜しそうに木から手を離すと、自分の鞄を持ち上げる。
「……」
「私、絶対ここに帰ってくるって決めたから、花はその時までおあずけ。もう一回、この桜見るまで頑張ってみる」
「…そうか」
引き止めようとは思わなかった。そうする理由も見つからなかったし、そんな必要もなかった。
「…ねぇ」
僕に背中を向けて、思い出したように尋ねる。
「どうして今日、ここに来たの?」
「…風邪、ひいてないかと思ったから」
嘘でもない。あれだけずぶ濡れになっていれば、風邪の心配をして当然だ。
「でも損した。ナントカは風邪ひかないっていうし」
「何それ、最悪。…もっと気の利いたこと言えないの?」
「頑張れよ」
「…裕幸もね」
それだけ言うと、千晴は古くて薄汚れた階段を降りていく。
今、この瞬間にも咲くかもしれない桜を、振り返りもしなかった。
「兄ちゃん」
逸れないように手を繋いで歩いていた貴志が、人雑の中で僕を呼んだ。
思い出した。三年前もこうやって貴志と一緒に祭りに来ていたような気がする。季節外れの桜を見上げていたような気がする。
「やっぱり僕、あの絵、持っていけない」
あの絵というのが、半分以上を僕が手伝ったあの写生の絵だということはすぐに分かった。そして僕も、同じことを貴志に言うつもりでいた。
「僕、兄ちゃんの弟だから、兄ちゃんみたいに何でもできるようになるんだって。僕は兄ちゃんと違ってお父さんやお母さんに怒られてばっかりだし、兄ちゃんみたいになったら、みんな喜んでくれると思って…」
貴志がそんなふうに思っていたなんて、知らなかった。ずっと弟は僕より恵まれていて、少なくともあの家にとって自分より意味のある存在なんだと思っていた。
自分は自分だと思っていても、他人はそうは思ってくれない。僕の弟というだけで、無条件に何もかも比較される。それが貴志にとっては辛いことだったのだ。
「でもやっぱり、そういうの嫌だから、自分で描くよ。…ごめんなさい」
「謝ることないさ。自分でやらなきゃ上手くならないから」
「うん」
貴志は満面の笑顔で頷いた。
僕はふと彼女を思い出して、ずらりと並んだ屋台の向こう側を仰ぎ見る。少し早い桜が、花火にも劣らないくらいきれいな花を咲かせていた。