第二話
『どうして私だけ!?』
誰だろう。
『私だってやりたいことがあるのに、どうして家に縛られなきゃいけないの』
あぁ、これは母さんだ。僕がまだずっと子供だったころ、よくそう言って泣いていた。かわいそうなひと。
『まだこんなに若いのに、どうして…。子育てで一生終わるなんて嫌よ!』
(じゃあどうして僕を産んだ?)
僕がちゃんとしていれば、僕が母さんを困らせたりしなければ、母さんだって好きなことができる。そう思っていたのに。
『おまえは将来、この家を継ぐんだ』
(なぜ?)
だってそれは父さんの仕事じゃないか。父さんのやりたいことを、どうして僕がしなきゃいけないんだ。
(僕にはもっと、やりたいことが…)
『成績優秀でスポーツ万能で、人当たりがよくて頼りになって』
当たり前だ。そうなるように努力したんだから。そんなふうに自分をつくってきたんだから。
『兄ちゃんってやっぱり何でも出来るんだ』
でも本当は、何も出来ない。
『おまけに誰にでも優しい』
嘘だ。僕はこんな町、嫌いだった。鬱陶しい人間も嫌いだった。家に固執する父親も泣いてばかりの弱い母親も大嫌いだった。
『…何で嫌いなふりするの』
嫌いだから、逃げ出したんだ。
「裕幸、もう寝てるの?」
母親の声が僕を呼んだのは、時計の針はまだ十時を少し回ったくらいで、特にやることもなかったから横になってはいたが眠ってはいなかった。自分の家にいるのに何故か落ち着かないところは、三年前と少しも変わっていない。
「起きてるよ」
僕は起き上がってそう答える。僕は昔から勝手に部屋に入ってきても怒ったりしなかったが、いつからか向こうの方がそれを避けるようになっていた。それが今日は珍しく、母親は中の様子を窺うように部屋のドアを開けた。
「何?」
「裕幸、何か困ってることがあるの?」
「?」
何の話をしているんだろう。よく理解できないで、僕は首を傾げた。
「だって、急に帰ってくるから、何かあったんじゃないかって」
(あぁ、そういうことか)
普通は自分の息子が家に帰ってきたからって、どうして帰ってきたんだとか訊かないだろう。どうしようもなく笑える親子だ、僕達は。
「別に、何もないよ」
「本当に?」
「大丈夫だって。母さんが心配するようなことは何もないんだから」
いつものようにそう言うと、母親は何故かしゅんとなってしまった。
「そうよね。裕幸は母さんなんかいなくたって大丈夫だもんね」
今度は何を言い出すのかと思ったら、何を突然。
「裕幸は昔から勉強も運動もできて、ご近所であなたのこと褒められるのがすごく嬉しかった。でも母さん、裕幸に何にもしてあげてないよね。だから裕幸に嫌われてても仕方ないって思ってたの」
「…そんなことないよ」
「分かるわよ。だってあなたの親だもの」
僕は急に腹が立ってきた。今更、母親みたいな顔をされても困る。僕なんか産まなければ良かったって思ってるくせに。
「僕は」
だから僕は一人で何だってできるようにならなきゃいけなかった。いつだって母さんを自由にしてあげられるように、誰にも頼らないように。
「本当に大丈夫だから…」
完璧な人間になりたかった。そうすれば誰にも何も言われない。干渉されない。
「…そう」
部屋を出て行く母親の背中を見送りながら、僕はふと千晴のことを思い出していた。
その日は朝から雨で、別にすることもなく部屋でぼんやりしていた僕は、水溜りの水をはねる音に気を取られて、何気なく窓の外を見やった。家の前を誰かが横切っていく。ただそれだけのことが妙に目を引いたのは、彼女が傘も差さずにふらふらと歩いていたからだった。
(何やってんだ、あいつ)
知り合いでないなら呆れるだけでやり過ごしただろうが、放っておくわけにもいかない。もし肺炎でも起こされたら、後味が悪いし。
「……」
声をかけようとしたが、急にいつもと違う雰囲気を感じて、我に返ったとき、僕は千晴の姿を見送ってしまっていた。
(神社か?)
方向がそうだったし、それに千晴の行きそうなところなんて、僕にはそれくらいしか思い浮かばない。僕はどうしようか迷ったが、結局、神社に行ってみることにした。
家からはそう遠くないのだが、山の中だけに曲がり道やら坂道やらが多い。いつ見ても古いだけで胡散臭いこの神社のあの桜の大木の下に、千晴は俯いて座っていた。僕の姿を認めて笑ったのが、あまりにもいつも通りで、僕はどうしていいかわからなかった。
「馬鹿かおまえは。傘ぐらい差して歩けないのか」
一応、千晴が濡れないくらいの位置まで近づく。彼女は、それには答えなかった。
「やっぱり桜、見に来たんだ」
「…こんな雨で、咲くわけない」
僕の中で、また苛立ちが頭を擡げてくる。それは以前と違った、理屈では説明できないもっと根本的なものだった。
「何かあったのか」
「でも明日か明後日くらいには咲きそうなんだよ?」
「そんなこと訊いてるんじゃない」
「……」
「……」
これじゃ、最初に会ったときと立場が逆だ。僕は諦めて向こうが口を開くのを待つことにした。
「ほんとに何でもないことだよ。…親が離婚するだけ」
(親?)
確かお祖母さんと二人暮しだと聞いていたはずなのに。
察したのか、千晴はまた笑って、言った。
「どっちも本当。両親はいるけど、私は二年前からお祖母ちゃんと二人暮し。でもそのお祖母ちゃんも、この前ぽっくり逝っちゃった」
どうして二人暮しをすることになったのかは、聞かなくても何となく察しがつく。
「もう一人でも大丈夫なのに、親はそうじゃないみたい。どっちが私を引き取るかで裁判までして。…笑っちゃうよね。親が子供を譲り合うなんて」
譲り合う。
それは、つまり。
「いらないならいらないって、はっきり言ってくれればいいのに」
「……」
「…ハハ…冗談じゃないよね。いつもいつも子供だからって親に振り回されて。産んでやったから育ててやったからって、それが何?」
こんなときでも千晴はやっぱり笑っていた。その表情から悲しいという感情を読み取ることはできない。
「私なんて生まれてこなければ良かったって思ってるくせに…」
『僕なんか産まなければ良かったと思ってるくせに』
僕はまるで何か変なものでも見るような目で、彼女を見つめていた。どうして、僕と同じことを言うんだろう。僕と彼女は全然、正反対の人間だったはずなのに。
「…私、お父さんのこともお母さんのことも好きだった」
ぽつりと千晴がそう零した。
「良い子でいれば私のこと好きになってくれるって思ったのに、良い子だから放ったらかし。今度は髪染めたり学校サボったりしても、叱りもしない。…だから諦めた。もう期待しないように、嫌いになろうって」
『一人で何だってできるように』。
『完璧な人間に』。
ずっと、そう思っていた。
「でもこの町にいれば、ずっと欲しかったものがこんなに簡単に手に入るんだよ。ここには私の居場所がある。ここにいればもうあんな思いしなくてすむ」
立ち上がった千晴は服が汚れるのも気にしないで、木の幹に寄り掛かる。
「明日、咲けばいいんだけど」
僕にはその言葉の真意が分からなかった。




