第一話
僕が十八まで住んでいた町は、山と川と畑ばかりの小さくて寂れたところだった。田舎特有の人間関係も地域性の高さも、僕には鬱陶しいばかりで、体面だけを取り繕うことを覚えると尚のことだった。
高校卒業後、逃げるように県外の大学に進学した僕は、盆や正月になっても何だかんだと理由をつけて帰省を避けていた。両親も何となく察しているのだろうが、何も言わないところを見ると、向こうもそんな息子とは顔を合わせ辛いのだろう。
まっすぐ家には帰らないで辺りをうろうろしていると、いつの間にか神社の境内に来ていた。
古ぼけた社に草の登った鳥居。三年も経つというのに、この町はどこも変わっていない。それが余計に自分を拒んでいるように思えて居心地が悪かった。
「あなたも桜、見に来たの?」
「…桜…?」
自分の他に誰かいたことに驚くよりも、違和感を覚えたその言葉を反芻していた。
「桜なんて」
暦の上では春といっても三月中旬で、まだ寒い日が続いている。梅ならともかく桜が咲いているわけがない。
「ここの桜は早咲きだから。今はまだだけど、すぐ満開になるよ。ほら、つぼみ見えない?」
(そうだっけ?)
三年前の今頃は、花なんて咲いていただろうか。
花どころかわずかな緑さえ芽吹いていないように見える大木を仰いだ僕は、そのとき初めて声の主の方を振り返った。
健康的な白い肌は、年頃の女の子にしては化粧っ気がない。少し傷んだ茶髪を首の位置で揃えて、トレーナーにジーパンというラフな格好をしている。
「見かけない顔だけど。…この辺の人だよね」
「……」
「東京?」
「……」
「…喋れないわけじゃないよね?」
覗き込むようにして僕の顔を見ていた彼女は、思いっきり僕の頬を引っ張った。
「そんなわけないだろ」
僕は顔をしかめて、その手を払いのけた。初対面で馴れ馴れしすぎるとは思わないのだろうか。
「そうだね、ごめん」
彼女は意外にも、あっさりと謝った。
「つい、いつもの癖で」
…この感じは駄目だ。
初対面のはずなのに、何故か苛立つ。彼女は僕にないものを全て持っている。僕が嫌悪して、意識的に避け続けていたものを持っている。そんな気がした。
僕は彼女に背を向けて、短い階段を下りた。
「あ。ねぇ、名前」
関係ない。
「なんていう名前なの?」
煩い。
「名前、ないの?」
「そんなわけないだろ」
どうして放っておいてくれないんだろう。どうして他人のことを知りたいと思うんだろう。理解できない。
「言いたくないんだ。じゃあヒロユキって呼ぶよ」
「?」
「私が最初に付き合った人の名前」
最低な気分だ。
自分とは決して相容れない存在。
もうそれ以上そこには居たくなくて、僕は早足で神社をあとにした。
いつもならあんな言い方はしない。もっと賢くかわすことができたのに、久しぶりに帰ってきたせいで調子が狂っているのかもしれない。
そうだ。あの感じ、覚えがあると思ったら、この町の雰囲気そのままなんだ。誰のことも他人とは思わない、みんなが家族みたいな空気。僕はそういうのが嫌で、この町を出て行ったんだ。
「あ、兄ちゃん」
家の前の道端で遊んでいた弟が、目敏く僕を見つけて駆け寄って来た。僕とは正反対で、人懐っこい性格をしている。歳の離れた弟を可愛く思わないわけではないが、弟が生まれてから余計に家に居辛くなったのも事実だった。
「お母さん!」
そう叫んで、僕の手をひいて家へ入る。
「どうしたの、貴志。そんな大声出して」
貴志の声を聞きつけて玄関先に出てきた母親は、僕の顔を見て目を丸くした。
「…おかえりなさい」
「ただいま」
「帰ってくるなら電話くらいしてくれれば良かったのに…」
僕がいきなり帰ってきて困っているのが、手に取るように分かる。予想通りの反応に、かえっていつものペースが戻ってきたらしい。僕は笑顔さえ浮かべて、母親の横を通り過ぎた。
「ねぇ兄ちゃん、いつまでこっちにいられるの?」
「いつまでって」
そう長居するつもりはないが、特に急ぐ用事を残してきたわけでもない。卒業後の進路のことをぼんやりと考えていて、気がついたら帰省していたのだ。
そんなつもりはなかったのに。
「お祭りがあるの、知ってるでしょ」
「あぁ、毎年神社でやってるやつだろ」
「一緒に行こうよ」
とんでもない。あんな知り合いばかりの祭りに行くなんて、冗談じゃない。
「暇だったらな」
「僕、みんなに兄ちゃんのこと自慢するんだ」
すっかりその気になっている貴志には悪いが、何か理由をつけて早めに帰ったほうが良さそうだ。
きれいに片付いたまま三年前と変わらない自分の部屋に鞄を置くと、母親に言われて何故か貴志の絵の宿題を手伝ってやることになった。僕が貴志に構っていれば、親も少しは安心できるというわけだ。
茶の間の机に広げられた四つ切りの画用紙を覗き込むと、貴志は緑の水彩絵の具でべったりと森を塗り潰しているところだった。
「…?」
見れば森の他には川と空しかない。まるで。
「写生?」
まるでこの町みたいだ。それにしても短絡化しすぎているが。
「うん。昨日あの神社で下書きしてきたんだ」
神社といえば妙なことを思い出してしまった。あの子は何だったんだろう。少なくともここで生まれ育ったわけではないことは確かだ。雰囲気はこの町に馴染んでいたが、きっと都会育ちだろう。こんな辺鄙なところでは珍しいことだ。
「あーあ、失敗。何で上手くいかないのかな」
「どこが失敗なんだ?」
確かにお世辞にもきれいとは言えないが、小学生の絵なんてこんなものだろう。木に影があるだけでも上出来と言える。貴志は口をへの字に曲げて、画用紙をびりびりと破いた。
「これじゃ駄目なの」
そう言ってさっさと絵の具を片付けてしまった。
次の日、僕は写生の下書きをやり直すという貴志に連れられて、もう一度あの神社に行った。今度はそこで色も塗ってしまうつもりなのか、絵の具も持ってきている。
僕は隣で大まかな間違いだけ指摘していたが、塗る段階になると貴志は少し手をつけるだけで、あとは全部僕が塗るはめになった。
「すごい。兄ちゃんってやっぱり何でも出来るんだ」
美術の成績は悪くなかったが、絵を描くのが特別好きだったというわけでもない。得意なものがあったわけでもない。ただ人並みに劣っているものがないだけで、周りが勝手に何でも出来ると思い込んだだけだ。すごくも何ともない。努力したからそうなっただけだ。
「貴志、でもこれ」
「あーっ、おねえちゃん」
僕の言葉を遮って、貴志が神社の境内を駆け下りていく。
「…?」
嫌な予感がして恐々と見下ろすと、案の定、そこには昨日のあの女の子がこちらを見上げて立っていた。貴志が絵を見せて僕の方を指差す。目が合うと驚いたような顔をしたが、すぐに貴志と共に階段を上って近づいてきた。
「こんにちは」
「はじめまして」
貴志がいるてまえ、昨日のような態度を取ることもできず、仕方なく笑顔をつくって挨拶をする。言葉が不自然なのに気付いて彼女は少し首を傾げたが、何も言わずに受け流してくれた。
「貴志くんのお兄さんなの?かっこいいね」
「うん!」
「お兄さん、何ていう名前なの?」
意地悪っぽく僕のほうを横目で見ながら、貴志に尋ねる。
「佐藤裕幸」
「…ひろゆき!?」
唖然として、それから笑いを堪えるようにその場に蹲った。あんなことを言われた後だから、これだけは絶対に知られたくないと思っていたのに。
「貴志、もうすぐ日が暮れるから先に家に帰ってろ。母さんが心配する」
言って先に帰らせると、まだ肩を震わせている彼女を軽く睨みつける。貴志が見えなくなると、今度は大声で笑いはじめた。
「ほんとにひろゆきだったんだ」
笑いすぎて、目の端に涙を浮かべてすらいる。
「しかも貴志くんちのお兄ちゃんだったとはねー。ほんと、噂通り。成績優秀でスポーツ万能で、人当たりが良くて頼りになって、おまけに誰にでも優しい」
「…そんな人間がこの世にいるわけないだろ」
「みたいね」
笑いが一段落ついたのか、指で目の端を拭うと、階段に直に腰を下ろした。
「私の名前、訊かないんだ」
「だから?」
何か変なものでも見るような目で僕を見上げる。
「変でしょ。あなた、私のことなんて呼ぶつもりなの?」
また会う機会があるとは限らない。いや、むしろもう会いたくない。
僕は少し考えて、適当にかわして帰るまで会わないように気をつければいいという結論に至った。
「ナオコ」
「…最初の彼女の名前?」
「母親」
あの人がそんな名前だったなんて、今まで気付かなかった。十代で僕を産んだという母親は、二十歳の息子がいるとは思えないくらい若く見える。
「お母さん好きなの?」
「まさか」
今さら彼女に優等生ぶっても仕方がない。
「他に思いつかなかったから」
「付き合ってた女の名前なんて覚えてないって感じだもんね。あんまり女の子…ってゆうか他人に興味がないんだ」
そう言われてみればそうかもしれない。勉強して大学に行って、この町を出ることしか考えていなかったような気がする。
「でも私にはちゃんと中野千晴って名前がある」
「…ふーん」
ナカノチハル。やっぱり聞いたことない名前だ。
千晴は日の沈みかけた町を見下ろして、目を細めた。
「良いとこだよね、ここ」
「……」
「町の人はみんな優しいし、自然もいっぱいだし。お祖母ちゃんと二人暮しなのに、なんか一度に家族ができたみたいでさ。私ずっとこういうのに憧れてたんだ」
「……」
「…何で嫌いなふりするの」
千晴は立ち上がって、僕をじっと見据えた。こういう真っ直ぐな人間は苦手だ。…自分がそうでないからだろうか。
「さっきはそんなじゃなかったのに」
「さっき?」
「絵、描いてるとき。そんな顔してなかった」
見られていたなんて気付かなかった。僕は千晴と目を合わせないようにして一段低いところに降りた。
「ここが良いとこだって言ったよな」
「?言ったけど」
そんなふうに思ったことは一度だってない。
「君にとってはもの珍しくて良い所かもしれないけど、僕は…」
きっと誰にも分からない。分かってもらう必要なんかない。