第二十一話『兄、来る』―3
血が止まったので、翔は真っ赤に染まったタオルを康成に渡した。いつもの感情が読み取りにくい顔。ただ確実にいえるのは、喜んではいない、という事だ。
「俺は目玉くらい、すぐに治るからいいけど……」
「よくないわよ! あの時は本当に、お兄ちゃんと縁を切ろうかと思ったわ!」
光は兄を睨み付けたが、当の本人は動じない。いや、震えている。感動で。
「光は怒ってもreizendな……!」
さすがは俺様の妹だ! などと、うち震えている兄を横目に、光は頭を押さえて項垂れた。
「で、潤! 目玉の事なんだが!」
ババッと話題を変えて、更に凄まじい勢いで振り向かれたので、潤はコトリと湯呑みを置いた。スッと差し出したのは、どこから取り出したのか――《P・Co》への依頼状。
首を傾げている輝に、潤は少々早口で告げる。
「俺の身体は現在《P・Co》の研究材料となっているので、肉体の一部をご所望でしたら、本社へ正式な依頼を提出願います。無断で俺の身体を切除、及び使用した場合、《P・Co》から担当の者が然るべき処置に来る決まりになっています。今からですと最短で、翔の家庭教師の仕事が終わり次第――」
「あぁー……面倒事はNein dankeなんだぜ……」
輝が引き下がったと同時に、潤は依頼状を引っ込め、再び湯呑みを手に取った。
「凄い……あのお兄ちゃんを黙らせるなんて……」
光は大きな眼を瞬かせ、感嘆の声を溢している。
拓人は半眼で「さっきの一文に、とんでもねぇ内情が垣間見えた気がするのはオレだけか……?」と呟いたが、概ね気に留められなかった。
「ねぇ。寿途は、無くなった部分が勝手に生えたりしないみたいなんだけど……、潤は目玉、生えてくるの?」
寿途……書類では見た事があるな。と潤は記憶を辿り、凌は、赤毛の女と一緒に居た癖毛の黒い奴か。と思い返した。
翔が答えを待って黙っているので、潤は再度湯呑みを置いた。
「生える」
短い言葉だったが、輝を復活させるには充分なひと言だったようだ。
輝はガバッと上半身を跳ね上げ、潤へ顔を向け、さっきの依頼状を出すんだ! と要求した。
潤は依頼状と一緒に、――どこにしまっていたのかは定かではないが――規約書も取り出した。一〇ページやそこらではない厚みだ。
「ではまず、この規約書に目を通して頂いて……」
輝は、あー……、と規約書をパラパラ捲り、パタンと閉じて、依頼状と一緒にしまいこんだ。うっすら汗の滲んだ顔をハンカチで拭う。
「うん。追い追いな……」
そう言って、お茶を胃袋へ流し込んだ。
「ねぇ、潤」
潤へ質問を繰り返す翔に、深叉冴と康成は「えらい懐いたものだな」、「そうですねぇ」と朗らかにお互いの顔を見合わせている。
「潤も血が繋がってないお兄さんが二人居るんだよね?」
「ああ」
「鬱陶しくないの?」
しー……ん。
水を打ったように静まり返った室内で、潤の唸り声だけが小さく舞った。
数秒経過。
「……うっとうしい……か……」
随分と考え込んでいる潤は放っておいて、康成が涙目で身を乗り出した。
「翔様は、僕の事を鬱陶しいと思っていたんですかぁぁああ!?」
「ついでに、輝の事も思ってるよ」
「ついで!? 俺様はついでで鬱陶しがられているのか!?」
とばっちりの悪球が、輝をも直撃した。
拓人がポツリ、鬱陶しがられてる事はいいのか、と呟いている。
「倫は今のままでいいよ」
「ふふ。有り難う。肉じゃがのおかわり有るけど、いる?」
「いる」
翔から空の器を受け取り、倫は軽い足取りで鍋へ向かう。お多福のようで、ひょっとこの様でもある……、悪ふざけだとしか思えないデザインの面が、こちらを向いている。倫が歩く度に上下に揺れて、なかなか不気味だ。
装われた肉じゃがを受け取り、翔は嬉々として食べ始めた。先程の質問は、肉じゃがによって上書きされたらしい。
輝も「久し振りに口にする味噌汁は美味いな!」と、もう気にしていない様子だ。
だが康成に回復の兆しは見えず、彼の周りだけ空気がどんよりと曇っている。
そんな康成の背中を、深叉冴がバシバシ叩いた。豪快に笑いながら。
「はっはっはー! そう落ち込むでない!」
「そうだよ、康成。安心して。父さんが一番鬱陶しいから」
「なんとぉおお!?」
康成の背中を叩いていた深叉冴が、爆発にでも巻き込まれたかのように吹っ飛んだ。当然、彼のオーバーすぎるリアクションなだけなのだが……。それが翔に『鬱陶しい』と言わせている事に、本人は気付いているのか、いないのか。吹っ飛んだ着地点で、よよよ、と嘘泣きをしている。




