第二十一話『兄、来る』―1
デートの予定が控えているという、泰騎以外の一行が天馬家へ着いた時には、夜八時を過ぎていた。そして天馬邸の裏には、潤が手配していたプレハブ小屋も鎮座している。
出迎えてくれた康成がプレハブ設置に関して、すごい早さで完成してびっくりしました、と感想を述べた。
「抜いた木々は、小屋の必要がなくなり次第元に戻しますので」
潤は改めて深叉冴に頭を下げる。
母屋の方から、暗がりにも負けない黄金色が、はためきながら近付いてくる。その中心には、ふたつのアクアマリン。
ワンピース姿の光が、翔の元へ駆け寄った。翔の体を、触角から足先まで観察している。
「お帰りなさい。怪我は……してないわね」
「うん。ただいま」
少し汚れている服などは気にせず、光は翔の体を抱きしめた。周りも、ハグに驚いたりはしていない。
翔が少しだけ背を縮めて、光の胸元に頬が当たるようにしているな……。という事にも、ノータッチである。
時間が時間なだけに、康成は夕食を皆にすすめて母屋へ戻った。拓人もそれに続き、潤はプレハブ小屋の中を点検。凌と深叉冴も潤についていった。
『お熱いことだな!』
と寒太が二人の周りを飛んでいるが、光には“キチキチキチ”としか聞こえない。
聞こえている翔も、
「寒太、俺は今、あつくないよ?」
という反応だ。
寒太は、やれやれ、と宙を一回転して、巣へ帰っていった。
翔は翔で「寒太、何しに来たのかな」と柔らかい脂肪に頬を埋めて呟いている。
そんなこんなで、この体勢で数分が経過。
深叉冴と潤が帰って来たのを確認し、光はいたたまれない気持ちに襲われた。
「あのね、翔……。そろそろ…………」
「光ぅううう!!!」
ドォォオオン!
翔が、何かに弾き飛ばされた。
翔の居た場所に、違う誰かが収まった。
「ああああっ! 光ぅぅう! 久し振りだなぁ! はぁあああ! かわいい! 光は可愛いなぁあああ!!」
光は、その“誰か”の腕にすっぽり収まり、熱烈な頬擦りを受けている。
「Bitte!」
「もう! 痛いって…………ば……?」
光が“誰か”を引き剥がそうと腕を伸ばした時には、“誰か”はこつぜんと姿を消していた。
光が辺りを見回すと、“誰か”は潤の両手を取って鼻息荒く、瞳を輝かせていた。
「Wie schön bist du!」
「Vi……Vielen Dank.Ah……Aber ich bin ein Mensch.」
がっしり両手を握られている潤は、少しばかり申し訳なさそうに答えた。
数秒固まっていた“誰か”が、電光石火の速さで後退る。凄い土埃だ。
「はっ!? 男ぉおお!?」
「何しに来たのよ、お兄ちゃん!」
光に似た顔。光と同じ、アクアマリン色の瞳。光より太い眉に、光より短い睫毛をしてはいるが、そっくりだ。全く違う点といえば、黒い髪色。
かなりの美青年――否、“色男”である。
光の兄は黒い髪を掻き上げ、妹に向かって片目を瞑った。
「可愛い可愛い妹に、会いに来たに決まっているぞ!」
言い放つと、羞恥で赤くなっている顔を両手で覆っている妹から、潤へ視線を移す。
「先程は失礼したな! 光の兄、東輝だ!」
「……初めまして。翔の家庭教師をしている、二条潤と申します」
潤が頭を下げると、輝は再び潤の手を握った。
「まさか男だとは! 男はNein dankeだが、美しさに性別は関係ないよな!」
「はぁ……」
「その瞳は本物か!? まさか、異界の精霊かハイエルフか何かなんじゃ……ッうぎゃ!?」
潤の瞳に手を伸ばした瞬間、輝は突然、何かに弾かれたように吹き飛んだ。
「すみません……。護符の効果で、自動防御が働くみたいなんです」
木の根元でひっくり返ったまま輝は、そうなのか……、と――よく意味は分かっていなさそうだが――呟いている。
光は葉っぱにまみれた兄の服を手で払いながら、嘆息した。
「あぁもう! っていうか、お兄ちゃんどうやって入ってきたの? 侵入者防止の、拓人君の結界が張られてるはずだけど」
輝は、すっくと立ち上がると、また髪を掻き上げた。葉っぱが数枚、はらはらと舞い落ちる。
「こいつに乗っていれば簡易的な結界など、ものともないんだぜ!」
何もない空間から突如現れたのは、立派な翼が生えた、白い馬。人が“ペガサス”と呼ぶ、ローマ神話に出てくる生物。天馬とも呼ばれる。
「俺様の使い魔、疾風丸だ! ドイツからも、こいつでひとっ飛びだぜッ」
輝は、バチコーン、とウインクを飛ばした。
この男、見た目は西洋人だが、ネーミングセンスは純和風のようだ。
「疾風丸で来たの!? 目立つから止めてって言ってるでしょ!」
「モチロン、隠密モードだぜ!」
高笑いを繰り返す輝に近付く、ひとつの影。その影の周りには、線香花火のような火花が複数散っている。
「ねぇ……。燃やしていい?」
「翔、ちょっと待っ……」
止めに入りかけた光の前に潤が割って入り、更に凌を呼んだ。
凌が翔に水を掛けて鎮火し、取り敢えず、無駄な発火は免れた。
「で? 本当の、兄君の来日の理由は?」
疾風丸の首を撫でながら、深叉冴が言った。
「おぉ。深叉冴! 日々、光の護衛、ご苦労だな!」
と笑っていた輝だが、珍しく真面目な深叉冴の眼光に負けて、肩を竦める。
輝は光に向かい、声をワントーン下げて言った。
「伯父さんと伯母さんが、殺された」




