第二十話『家庭教師』―1
《自化会》本部。
時間は少し遡り、千晶と寿途が焼肉屋“匣”を出た頃だ。
拓人は、男と女の声がする方へ向かっている。
角を曲がると、馴染み深い顔がふたつ並んでいた。
そのふたつの顔の内、ひとつが拓人に気付いた。
翔は赤い瞳を真っ直ぐ拓人へ向け、珍しく真剣な表情をしている。
「拓人。ちょっと訊きたいんだけど、拓人は人間の雄だよね?」
居候先の当主であり、仕事の相方であり、現在同じ学校に通う幼馴染みに、大真面目に問われたわけだが……。拓人の口からは、問いの答えどころか、間抜けな声しか出なかった。
「はぁああ?」
と。
拓人が助けを求めるように視線を送ると、頭ひとつ分飛び抜けている銀髪の洋介が肩を竦めた。いつものオールバックではなく、髪は乱れている。
女の声も聞こえたんだよなぁ、と拓人が視線を辺りにやると、拓人の居る方の壁に背をつけて固まっていた。金髪碧眼美少女が、顔を真っ赤にして。
声も出ないのか、僅かに開いた口が震えている。
翔の問いに関するヒントは見付からない。
「どーいう状況なんだよ……」
半眼で問い返せば、翔は洋介を指差して言った。
「洋介が光にチューしたんだ」
洋介は乱れた髪のまま、ヘラッと笑っている。
「だってさぁー。こんな可愛い娘が居たら、キスくらいしたくなるでしょ? あ、勿論、ほっぺにだよ?」
「いや、犯罪だろ。セクハラ、若しくは強制わいせつ罪だろ」
状況が読めてきた拓人は、光に同情した。目をつけられた相手が悪かったな、と。
そして、翔も翔で間が悪い。到着したばかりで、そんな場面に出くわすとは。
「でもさぁ、欧米じゃ挨拶でしょ?」
「お前は元ロシア人だろ。挨拶でキスする習慣はないはずだ。光さんだって、日本育ちだからな。それにドイツ人も、そんなあからさまな挨拶はしない」
拓人は早口で言い終えると、重い息を吐いた。
「大体『可愛いからキスする』って言ってる時点で、挨拶の概念どっか行っちまってんだよ」
ジットリと睨めば、洋介は笑ったまま口元を痙攣させた。
「でも、僕は特別講師召喚の件のお礼も兼ねてさー……」
「洋介、さっき『男なら、可愛い女の子を見るとキスのひとつもしたくなるものだ』って言った」
ここまで聞いて、やっと先程の質問と繋がった。
つまり「拓人は男だけど、光とキスしたいと思った事はないよね?」という旨の質問と思われる。
「洋介が特殊なだけだ。一々真に受けんな……」
拓人が嘆息すると、翔も肩の力を抜いたらしい。場の空気が和らいだ。
「なんだ。よかった。この世の人間の雄を滅ぼさなきゃならないのかと思った……」
「食い止める事が出来て、何よりだ」
どこまで本気か分からない台詞だが、翔の事だから本気で言っているに違いない。
拓人は取り敢えず安堵したのだが、翔は右手を洋介へ向けて言った。
「つまり、洋介を滅ぼせばいいんだね」
「待て待て待て待て。今、一々真に受けんなつったばっかだろ。同じ組織の仲間を殺すな」
拓人が諭すと、翔は「そっか」と腕を下げた。
「いやぁー。僕って気の強い娘が好きでさ。ごめんね。まさか、こんな可愛らしい反応をして貰えるとは思わなくてさ」
洋介が去り際にそんな言葉を言い残すものだから、翔が再び右腕を洋介の背中へ向かって振り上げる。
それを制すと、拓人は翔の気を反らす為に話を振った。
「にしても、翔の独占欲がそんなに強ぇなんて、少し意外だな」
「俺も不思議なんだけど……俺、光以外の人に好かれた事がないからかな……?」
拓人は、その言葉を聞いたら泣きわめく人が複数居ると思うぞ、という言葉を呑み込みつつ、瞼を半分下ろした。
視線の先には、洋介の唇が触れたと思しき箇所を舐めている、翔。
先刻より更に顔を赤くして、体ごと震えている光。
すごく気まずい拓人。
「あー……、オレ、もう行っていいかな?」
時刻は十四時半。ランチタイムは終了。
今から食事を摂ると、夕飯が食べられなくなるな……。などと拓人が考えていると、光の頬を舐め終えた翔が言った。
「俺たちも帰るから、一緒に帰ろ」
確か、翔は今来たばかりのはずだ。
「お前、何しに来たんだ?」
翔はいつもの無表情で、首を傾げた。光の手をしっかり握って。
「光を迎えに来たんだけど……他に何かある?」
逆に、お前はやるべき事の方が多いだろ。そう思ったが、言っても理解されないだろうと、溜め息を吐いた。
「いや、オレはまだやる事あっから。二人で帰れよ。オレも夕飯までには帰るから」
正直、常時手を繋いでいるバカップルに挟まれるのは御免だ。というのが本音だが、やはり口には出さず、拓人は二人を見送った。
◆◇◆




