第十九話『天神と虎』―4
ドイツ時間十八時半頃。ベルリン空港。
「はぁー……気温あんま変わんねーかと思ったら、やっぱこっちの方が冷えるなー」
青年――否、少年だろうか――は小さく身震いすると、コートを羽織った。三年前、姉が誕生日に買ってくれたものだ。少しくたびれているが、着ている本人は気にしていない。
少年は、特撮ヒーロードラマ出身の若手俳優か何かか、というような整った顔立ちをしていた。
焦げ茶にも見える黒い髪と、茶色の瞳。首から上は、日本人の大半を占める配色をしている。
つまり、特徴という特徴は“整った顔”くらいのものである。
「ドイツつったら、ビールとソーセージとじゃがいもだよな。その前に、チェックインか。こんな街でも一泊五千円くらいのホテルってあんだなー」
などとブツブツ言いながら、空港内の周辺地図を確認。
宿泊するホテルの位置を確認しながら、「ベルリン・ユダヤ博物館が超近ーじゃん。明日行ってみよー」と、独り言を呟いている。
「コンニチハ、日本ノカタですカ?」
と、背後からカタコトの日本語が聞こえた。
少年が振り向くと、大学生くらいの青年が立っていた。金髪で、顔には薄いそばかすが散っている。
背負っているリュックの肩ベルトの位置を直しながら、少年はニコリと笑って頷いた。
青年は嬉しそうに続ける。
「ワタシハ、大学デ、にほんゴヲ、習っテマス。よろしケレバ、行ク場所マデ案内させてクダサイ」
話を聞けば、この青年は空港や駅で日本人を見付けては話し掛けて、日本語に慣れようとしているらしい。
少年は快く、青年の話し相手を買って出た。日本から十五時間ほど、話し相手が居なかったのだ。誰であろうと、人と話せるのは嬉しい。
二人は並んで、空港のバスターミナルへ向かった。
バスの中では、日本で流行っているお笑い芸人の事や、流行っている歌などの話題で盛り上がった。
青年はまだ日本へ行ったことがなく、いつかは行ってみたいのだと、興奮ぎみに話していた。
家が貧しく、大学へ行くのもやっとなのだ、とも打ち明けた。
話しているとあっという間に、ポツダム広場にあるバス停に着いた。
そこから、徒歩でホテルへ向かう道中も、話は尽きない。
少年は、これだけ喋れりゃ充分だろ、と青年に対して心中で呟いた。
ホテルの付近に着いた頃には、空は真っ暗。少数の電灯が闇を照らしている。
細い路地を歩いてきたので周りに人の影はなく、少し不気味な雰囲気だ。
青年は「アリガトウ。楽しかったデス」と、満面の笑みで右手を差し出してきた。
少年も顔を綻ばせ、差し出された右手に応えるべく、右手を差し出す。その右手首を掴まれ、足を払われたところで、少年は短い呻き声を漏らした。
「ユダンタイテキですヨ。子ドモ一人で居タラ、狙われルの当たり前デス」
青年はリュックを奪い、脱兎の如く走り去った。――が、五メートルほど行ったところで動きが止まった。
「やれやれ。楽しいモードのまんま別れとけば、お互い良い思い出で終われたのになぁ」
少年は慌てるでもなく、反対に、ダルそうに溜め息を吐き出しながら言った。
尻についた土埃を左手で払いながら、右手はドイツ人の青年へ向けて突き出している。
青年は背を向けたまま、動かない。辛うじて眼球を後ろへ向けるも、少年の姿は見えない。
「観光客を狙った引ったくりも、手が込んだもんだなぁ」
という声だけが、青年の耳へ届いた。次の瞬間にはリュックが手から離れ、それは螺旋状に浮遊しながら少年の元まで戻っていく。
リュックを横に浮かせたまま、少年はニコリと笑う。
「よく喋る口と、おイタする手は……、こうだ」
ぐりん、と青年の右腕が、見えない何かに捻り上げられた。そのまま、雑巾でも絞るかのように捻れ――ゴリッパキ、と何かが折れる音が、路地に響いた。
言わずもがな、青年の右腕の骨の音だ。不自然に折れたそれは、肉を突き破って白い身を覗かせている。
青年の腕には激痛が走っているはずだが、青年は絶叫どころか声すら上げない。首元が所々へこんでいる。
喉頭が内側から潰されているらしい。青年は口から盛大に血を吐いた。
「じゃあな。ドイツの兄ちゃん。道案内アリガトナー」
リュックを肩に掛け、少年が背中越しに手を振る。すると青年は、吊るされていた糸が切れたように、右腕を押さえてその場に倒れ込んだ。
数分後。路地から空気を切り裂くような、複数の女の叫び声が上がったわけだが――少年は、道中買ったブラートヴルストを自室のベッドで頬張りながら、それを聞いていた。




