第十七話『赤い女子大生と現役小学生』―2
寿途のリクエストは『焼肉』だ。舌の肥えている寿途だが、基本的には何でも食べるし、高額になるものは臣弥にしか頼まない。空気を読む、というよりは、差し障りのない選択をする、というのが寿途だ。
日曜日の昼食時。“昼間から焼肉”という選択をして店へとやって来ている人は、決して少なくない。店のレジ前のスペースには、席が空くのを待っている人々が犇めいている。そんなチェーン店を通り過ぎ、千晶と寿途は裏路地の、個人経営の焼肉屋へ入った。
大通りからひとつ細い道へ入るだけで、そこはノスタルジックな雰囲気を漂わせる空間となっている。グルメ情報番組などで“隠れ家”と呼ばれる系統の店とも、また違う。大半の人物はこう思うだろう。「この店、何で潰れないんだ?」と。
「こんにちはー」
色の褪せた緋色の暖簾をくぐり、木枠の引き戸を開けて店内へ入る。
外観は廃れて見えたのだが、内観は意外に新しく見える。壁紙の模様が所々継ぎ接ぎのようになってはいるが、小奇麗だ。小鉢に植えられた多肉植物が、出窓にちょこんと載っている。
客はおらず、レジ横で椅子に座って新聞を広げていた女店主が、新聞を降ろして顔を覗かせた。加齢により白くなった髪は、肩辺りで切り揃えられている。にやりと笑うと、目元と口元に皺が増えた。その皺の数が、還暦は迎えているであろうという旨を教えてくれる。
「いらっしゃい。千晶ちゃん、今日もデートかい?」
女店主は新聞をレジ裏へ置き、メニュー表と冷水とおしぼりを、二人の座った席へ持って来た。
「そうなのそうなの。寿君、ここのお肉好きなのよぉー。あ、勿論、あたしも好きなんだけどね。取り敢えず、今日のオススメとトマトジュースとコーラ下さい」
メニュー表を寿途の方へ向け、千晶はおしぼりを袋から取り出した。寿途はテーブルに置かれているメモ用紙に、鉛筆で肉の部位名を書き連ねていく。
頼まれた品を二人の元へ届け、レジ横に座り直した女店主だったが、数秒で再び立ち上がった。
「やれやれ。面倒なお客さんだ」
少しして車のエンジン音が聞こえ、店の裏で止まり、更に少しして店の入り口が開いた。入ってきたのは、二人組のネクタイを締めていない黒スーツの男たち。
一人は丸刈りで、頬に大きな傷がある。背は低めだ。眉は無く、一重の釣り目が印象的だ。
もう一人は、金髪をオールバックにした長身。目尻の下がった黒い眼をしている。
見るからに堅気ではない風貌をした二人だが、女店主は「いらっしゃい」と迎え入れた。先程、千晶や寿途を迎えた時に比べると少々無愛想に見えるが、老舗によくいる“堅物店主”なのだといえば、納得できるレベルの無骨さである。
とはいえ、この二人の男は焼肉を食しに来たようには見えない。何故なら、二人はテーブルの並んでいる方向ではなく、レジの方向へ進んでいるのだ。しかも物騒な事に、オールバックの手にはフォールディングナイフが握られている。
そして、女店主にこう怒鳴り付けた。
「どけろババア!」
実に分かりやすい単純な命令と共に、とてつもなく失礼な呼び名を叫んだオールバックの男。だが次の瞬間には、そんな男は存在しなかったかのように、その場からこつぜんと姿を消した。ナイフだけが落ち、回転しながら床の上を滑った。
男の立っていた場所には代わりに、片脚を腰の高さに上げた女店主が立っている。
ゆっくりと足を床につけた女店主は、ふぅ、と息を吐くと、数メートル先にある壁に視線を向けながら前髪を掻き上げた。
視線の先では、壁に背をめり込ませているオールバックの男が、伸びている。その男と並んでいた坊主頭の男は、目と口を間抜けに開けたまま、瞬間移動した相棒と女店主とを交互に見やっている。そんな坊主頭を、女店主は蔑むような眼で睨んだ。
「礼儀がなってない。出直しな」
ひと言告げると、坊主頭は「覚えていやがれ!」と雑魚らしい捨て台詞を吐いた。意識のないオールバックの男に駆け寄り、ズルズルと引き摺って行く。へっぴり腰で少しずつ出口へ向かうも、女店主の様子をチラチラと伺いながら後ろ向きに進んでいるものだから、入り口の扉に思い切りぶつかった。
レールから少しズレた引き戸を元に戻すと、男二人は今度こそ去って行った。
「やすえさん、相変わらず強ーい! 惚れ惚れするわ!」
女店主“やすえ”は、手を叩く千晶に追加の上ロースの皿を渡しながら嘆息した。
「老体にゃ堪えるよ。いい加減、ここの店番も引退したいもんだ」
やすえが首を左右に動かす度に、パキポキと乾いた音が鳴っている。
「どうだい? 千晶ちゃん、店番は楽でいいよ」
「ごめん勘弁だわ。あたしは真っ赤な血の海が好きなの」
「相変わらず、お嬢はおっかないねぇ。ねぇ、寿ちゃん?」
焼けたロースを頬張っていた寿途は、急ぐ様子もなく咀嚼を繰り返し、口の中を空にすると、首をゆっくりと縦に振った。「口の中に物を入れたまま喋ってはいけませんよ」という、臣弥の教えを守ったが故の遅緩。だが、女二人は急かすことなく、その様子を見守っている。
「ぼくは……そんな千晶、好きだよ」
九つ年下の想い人から好意を告げられ、二十歳の千晶は頬を赤く染めた。今の彼女は、頭の先から爪先まで真っ赤っかだ。
やすえは、やれやれ、と息を吐きながら空の皿を取り、カウンター裏へと戻った。
流しに溜めた水に、血液の残った皿を沈めていると――店の暖簾が微かに揺れ、引き戸が音を立てて動いた。




