第十二話『営業コンビと水神と』―5
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《P×P》の事務所では、凌が居ないという事以外は、変わらず日常が過ぎていた。凌が抜けた事で、営業部の仕事量が増え、バタバタする事が懸念されていたのだが――尚巳が難なくふたり分の業務を熟すので、所内は円滑に回っている状態だった。
木曜日。東京の空は、ねずみ色をした厚い雲に覆われていた。空から落ちてきた水滴が、花壇のレンガを斑に濃くしている。
潤は、事務所から徒歩零分の位置にある《P・Co》本社ビルへ向かっていた。ジャケットの両肩に三粒の水滴が染みを作ったが、気に留めず、本社のエントランス受付嬢に声を掛ける。愛想のよい対応を受けた後、エレベーターに乗って十五階まで上る。
着いた先は社長室。ノックを四回。はーい、という緊張感のない返事を受け、潤はドアノブを捻った。
「珍しいね。潤が自分から僕に話を持って来るなんて」
黒いワイシャツに黒いジャケット――とにかく、肌の色以外は髪から目から服から靴まで黒い。そんな雅弥は入り口正面にある机に着き、両肘を突いて手を組み、微笑っている。
潤は笑うでもなく、扉を閉めると一度軽く頭を下げた。
雅弥の前で立ち止まり、体の前で右手を上にして手を組んだ。
「社長。ひとつ、頼みたい事があるのですが」
「へぇ。潤が僕にお願いだなんて、更に珍しいなぁ。何かな?」
言いながら、雅弥は組んでいた手を解いた。表情は変わらず、快い微笑を湛えている。
潤は、日曜日の事で、と短く告げると言葉を切った。
雅弥は「あぁ。そっか、凌の事だね」と両手を軽くひとつ打つと、両手の平同士を押さえ付けた。重ねて、少し首を竦める。
「ごめんね。僕も一緒に行きたかったんだけど、仕事が立て込んでいてね」
「いえ。気になさらないで下さい。それで、凌が今回の依頼遂行を達成出来なかった場合の事なのですが、彼の処分は俺に一任して頂けないでしょうか」
潤はひと息でそこまで言い切ると、静かに息を吸い込んだ。
「うん。いいよ」
即答ともいえる速さで、あっさりとOKが出された。潤が続けて、頭を下げる。
「有り難うございます」
「何だかごめんね。何もかも押し付けちゃって」
再度両手を合わせてくる雅弥に、潤が苦笑した。軽く首を横に振ってから息を吐き出す。
「いえ。ところで、今回のお話はどなたから……」
「秀貴だよ。あれ? 言ってなかったっけ」
「聞いていません」
「あー、うん。えっと、ごめん。ほら。僕にこんな事言って来る人なんて、謙冴か秀貴くらいだしさぁ……」
視線を左右に泳がせながら、雅弥は特に意味もなく指を回している。対して潤は「まぁ、そんな気はしていましたけど」と小さく漏らした。
「秀貴、連日海外でさ。日曜日も現場には居ないみたいなんだけど、彼の息子さんと……あと、凌の依頼対象のお父さんが居るみたいだから。そこんとこ宜しくね」
「『宜しく』と言われましても……。それに今“お父さん”と言われましたが、亡くなっているんですよね? 霊体か何かですか?」
潤の質問に、雅弥はまたしても目を泳がせながら、指を回している。
「いやぁー、僕もまだ会ってないから何とも言えないんだけど……。聞いた話によると……」
雅弥はそこで言葉を止め、説明の内容をまとめようと思案したのだが――
「色々あったみたいで。まぁ、会ってみたら分かるよ。顔写真ならあるんだけど……」
そう言って引き出しから出された写真が三枚。潤はそれらを見て、眉間を狭めた。
一枚は、梅染色の髪の少年。赤い瞳をしているのだが、潤の赤よりまだ深く、濃い色をしている。その眼はどことなく眠そうだ。癖のある髪の頂点からは、ひと房の毛束が弧を描いて伸びている。
もう一枚は、その少年と同じような顔をした黒髪の少年。目の色も、癖のある髪も同じ。ただ、表情は対照的で、明るくにこやかにカメラ目線を向け、指でピースサインまでしている。
最後の一枚は、柿渋のような髪の色をした青年。瞳の色も髪と同じ色をしている。フィルムカメラで撮られた写真らしく、少し古い。カメラ目線でウインクをして、ピースを口元に添えていた。しかも、そのポーズがやたらと様になっているというか、自然に見える。アヒル口というよりは、犬や猫のような口元をしているな、と潤は思った。
「あ、そうそう。ピースをしてるふたりが同一人物で、凌の標的のお父さんで、《自化会》設立者のひとりで、謙冴の弟君だよ」
「…………」
潤は三枚の写真を手に持ったまま、視線すら動かさなくなった。瞬きすら忘れてしまっているようで、写真を凝視している。
「混乱する気持ちも分かるんだけど、ホント、会ってみて、話をしたら分かる筈だから……」
説明を自ら放棄した雅弥は、潤に向かってそう言うしか出来なかった。尤も、雅弥自身もまだ本人に会ったわけではない。秀貴から話を聞いただけなので、全てを理解しているわけではないのだから、仕方がない。
潤はまだ写真を見詰めている。
「……謙冴さんの、弟さん……」
うわ言のように呟かれた言葉に、雅弥は「え、あぁ、そっち?」と、これまた小さな声で呟いたのだった。
これにて第一章が終わります。
ここまで読んでいただき、有り難うございますm(_ _)m
あと2話分短編(幕間)を挟んで、少しばかりの休載に入ります(*´ω`*)