第十話『魔女の皮を被った……』―5
目を開けて見えたのは、天井だ。場所はおそらく、保健室だろう。
「あ、起きた……」
目だけを動かして見回し、こちらを見ている自分の婚約者の姿だけ確認できた。友人の姿はない。
惨めで恥ずかしくて、どんな顔をすれば良いのか分からない。消えてしまいたいと願ったところで、それも叶わない。
光は上半身を起こすと、ベッドの上で膝を折った。眩暈と頭痛のする頭を両手と膝で支えながら、壁に腰を預ける。
言葉を発する気にもなれず黙っていると、翔が顔を覗き込んできた。
「俺……ちょっと……いや、いっぱい、言いたいことがあるんだけど……」
頭痛が増した。耳鳴りまで響いてくる。全身が、翔の言葉を聞くまいと悲鳴を上げている。
聞きたくないと全身が拒絶している。だが、光は頭を支えている手と膝の間から、薄目で翔の姿を確認した。
「俺……自分のこと、凄く嫌いだったんだよね」
予想していた内容の斜め上を語りかけられた。
光は膝を抱いて、顔を伏せたままだ。
翔が、ゆっくり続ける。
「今は、結構好きなんだ。身体は丈夫だし、好きなことも増えたし……生きてるの、結構楽しいな……って」
光は微動だにせず聴いている。
「でも、記憶力は悪いし、未だに上手く力の制御は出来ないし……。嫌なところもまだまだたくさんあるんだよね。で、俺……最近気付いたんだけど、光さんの事……、何とも思ってなかったんだ」
光は隙間から翔を黙って見ており、翔はたどたどしく続ける。
「ぅうんと……好きとか嫌いとかじゃ、なかったんだよね……。恐いっていうのとも、何か違って。……だって俺、強いから。誰かを『恐い』って思わないよ。……って、思うんだよね……」
翔は難しい顔で、続きの言葉を捻り出す。言葉、言葉の間に、唸り声を挟みながら。
「でも、なんか近付きにくかったんだ……。理由がよく分からなかったんだけど……。今日、なんとなく分かったし、もう、そんな事どうだっていいかな」
膝を抱えている光の手を取ると、翔は真正面から光の顔を見た。
揺らいでいる青い瞳などお構いなく、続ける。
「俺、嘘つきは嫌いだから。嘘つきとは結婚なんてしないよ」
光にとって、とどめの一撃だった。
ブルートパーズのように綺麗で大きな瞳から、大きな涙がひと粒零れ出た。
光の手を握っている、柔らかい手に力が加えられる。
「だから、思ったんだ」
光の耳鳴りが更に増した。だが翔の言葉は止まらない。
「結婚したい、って」
「え……」
光の脳内で、色々なことがぐるぐる巡る。
分からない。目の前の人物の言っている事が、理解できない。いつも完璧に理解しているわけではないが、今回は特に難解だ。
嫌われたから、婚約は解消だろう。今までの話の流れからして。
困惑しすぎて、光の涙は引っ込んでいた。
翔が、笑みを見せる。にんまりと。深叉冴が時折見せるような、意地の悪い顔だ。
「だって、光さんはもう俺に、嘘つけないでしょ? 嘘ついたら俺、もう分かるもん」
未だ戸惑っている光だが、翔は構わず言葉を吐き出す。
「俺は、今日の光さんの事、『好きだな』って思ったよ」
一八〇度別方向からのとどめが、光に下された。
光が再び、火が噴き出したのではないかと錯覚するほどに熱くなった顔を伏せるが、手は未だ翔に握られたままだ。
「ねぇ……ちょっと。顔隠さないでよ。婚約破棄するよ」
脅迫か。と思うような言い振りだが、翔にそんなつもりはない。何故なら、彼はただ自分が思った事を、そのまま口に出しているだけだから。そして、彼には“脅迫”などという高度な駆け引きは出来ないから、だ。
涙目で顔を上げた光を見て、翔は満足そうな顔を向ける。
「好きでも嫌いでもない光さんは要らないけど。俺が好きだと思った光さんは、居てくれた方が嬉しいなって思うんだよね」
「……つまり……素のアタシで居ろ。って事ね……」
光は頭の中を整理するように、自分に向かって声に出して呟いた。続けて嘆息する。
「それが出来れば、今まであんな態度とってないんだけど……」
「出来なきゃ結婚しない」
翔の頑固さは知っていたが、ここに来て自分を苦しめる要因になるとは。光には完全に想定外の事だ。
光はかぶりを振ると、息を吐き出した。
「いいわ。翔と結婚できない人生なら、生きる意味がないもの」
ふと、翔の頭に疑問が過る。
「今まで気にした事なかったんだけど……光さんって、俺の何がそんなに好きなの?」
問われた言葉の答えを少し考え、光が「そうね」と呟いた。
「人を好きになるのに理由なんて要らないわよ。翔以外、アタシにとっては男も女も人間も動物も関係ないの。……まぁ、強いて言うなら……触り心地と、強いところと、見た目と、頑固なところと、触り心地と、不器用なところと、声と、眼の色と、触り心地と――」
「あ……うん。ありがと……もういいや……」
早口で捲し立てられ、翔が「覚えきれないから聞いても仕方がないな」と胸中で首を竦めた。
光は、訊いてきたんだから聴きなさい、と言わんばかりに続ける。
「見た目と触り心地は外せないわ! 特にその脂肪。 朱雀の遺伝子に、全力でお礼を言いたいわね。もう少し見た目が丸ければ最高なんだけど……翔は身体の構造上、必要以上に太らないのが残念なところね!」
熱を持った瞳で興奮気味に訴えてくる光に、翔は「へぇ……」と呟くことしかできなかった。
確かに、翔は見た目よりも体脂肪率が高い。
鳥の骨は空を飛ぶ為に極々小さな穴が無数に開いている。翔も骨密度が低い。更に、筋肉よりも軽い脂肪の割合が極端に多い。その所為か、瞬発力は低めだ。
骨もよく折れる。尤も、折れたらその都度、随時治っていくので翔自身があまり気にしたことがない。
光はというと、翔の手を握り直して撫でている。
「触ったら絶対に顔がニヤけるから触らないようにしてたけど……やっぱり堪らないわ。この柔らかさ……」
ともあれ、今は保険医が不在なのがせめてもの救いか。他に休んでいる人物もいない。
依然として手を撫でたり揉まれたりしている翔が、首を傾げた。
「光さんって、太った人が好きなの?」
「そうね。お相撲さんは好きよ。見ているだけで癒されるわ。まぁ、翔とは比べものにならないけど。でも、清潔感のない汚い人はお断りよ」
本当に、ペットでも膝に乗せているように手を撫でるので、翔は思わず笑いを零した。
「うん。やっぱり、今の光さんの方が好きだな」
光の顔がまた真っ赤に染まる。
あまりの変化に、翔は瞬きを忘れた。
(面白い)
翔は新種の生き物を見付けたかのように見入っていたのだが、光が手で視線を妨げる。
「あまり見ないで。アタシ、嬉しいとすぐに顔が赤くなるんだってば。しかも肌が白人寄りだから……顔が赤くなるとすごく目立つのよ……」
あぁ、それで対人赤面症の倫と仲が良いのか。と、翔の中の疑問がまたひとつ、解消された。
それと同時に、こんな綺麗な人でもコンプレックスってあるんだなぁ。とも思った。
「俺はこんな身体だから、ヒトと違うの、当たり前で……別に、人間になりたいわけでもないんだけど……。そういうの、隠すよりそのままが良いな」
『そういうの』が、顔が赤くなる事を示していると気付くのに、光は数秒を要した。
「こんな自分を見られるのが嫌で、今まで頑張ってきたのに……。ほんと、翔って自分勝手だわ……」
「え……。でも、俺のそういうとこ好きなんでしょ?」
きょとんと悪びれなく訊いてくる翔に、光は額を押さえた。
「だから今、困ってるのよ……。あぁもう。ほんと、顔に似合わずカッコ良いんだから困るわ」
「前もちらっと聞いたけど……俺のことカッコイイって言う人、光さんだけだよ……」
父親を除き、人から褒められることが殆どない翔にとっては嬉しい事だが。
「アタシだけで良いのよ」
満足げに笑う光の顔がとても自然で、翔もつられて笑った。




