第十話『魔女の皮を被った……』―4
翔が体育館裏の手洗い場に向かっていると、情けない女の声が聞こえてきた。
泣いているようにも聞こえるが、怒っているような口調だ。
もう一人は、宥めているようだった。
いや、どちらも怒っているのかもしれない。
(喧嘩、かなぁ……)
何となく出て行きにくく、翔は声が治まるのを体育館の陰で待つことにした。
「しっかりしなよ。もう少しで体育終わっちゃうから。それまでにその顔なんとかしないと」
声の様子から、宥めている方の女はほとほと困り果てているようだ。
聞き覚えのある声だが、誰のものだったか――。
告白現場に遭遇してしまったような気まずさから、翔が別の手洗い場へ行こうと踵を返した――その時。
よく知った声が聞こえた。否、よく知っているが、初めて聞く声だ。
翔はたまらず、息を潜めて物陰から顔を覗かせた。
そして目の前の光景が信じられず、目を数回手で擦ってみた。が、変わらぬ現実が目の前に在る。
「鈴音、もう少し待ってぇ」
「あぁもう。あたしの体操服で顔を隠さないでってば」
「じゃあ、何で隠せば良いのよ」
「自分ので隠せば良いでしょ!」
「アタシの体操服が伸びちゃうじゃない」
理不尽だ。しかし、その物言いはよく知っている人物そのものだった。
「いい加減にしてよ光! 急にこんなトコに連れて来られたかと思えば、ノロケ話聞かされるし! 嬉しいのは分かるけど、本人に直接言えば良いでしょ!」
「言えるわけないじゃない! アタシ、すっっ――っごく恐がられてるのよ!?」
「自業自得でしょ! 普段のあんた、恐いんだから! 尚の事、ちゃんと素直に――」
「無理よ! 気持ち悪がられたらどうするの!? 恐がられてる方がマシだわ!」
友人の体操服から顔を上げたその女は、顔を真っ赤にして目に涙を浮かべていた。
こんな人物は知らない。
翔の知っている光は、いつも強気で、何でもそつなくこなし、人を見下したような眼をしている。
実際、その立ち振る舞いは高雅な容姿と、とても調和が取れていた。
だが、今目の前で情けない声を出しているただの女子を――翔はとても自然に飲み込むことができた。
一年以上掛かって、やっと合点がいった。
何故、光について全く興味を持たなかったのか。今なら、説明が出来そうな気がする。
本来の光は、こうなのだ。
つまり、精一杯、全力で強がって、本当の自分を悟られないように振る舞っていた。それだけの、ただの十六歳の女の子だったのだ。
翔の感じていた恐怖にも似た感覚は、『本心が見えない存在』に対してのものだった。というわけだ。
それを弱い頭で何とか理解し、翔は呆然と、物陰からふたりの女子を眺めた。
「……どうしよう……」
どうすることもできない。自分は、見てしまった。
虚勢の綻びを。
時間は戻すことが出来ない。五限目が終わりに近付いている。
それこそ、数年前の自分ならば、無視して何事もなかったように振る舞えるだろう。だが、もうそれ程他の人間に対して無関心でもない。それだけ、自分が『人間らしく』なっているということなのかもしれないが――。
呆れた様子で光の手を取っているのは確か、光の中学時代からの友人だ。
明かりに透けて輝く金髪の光とは正反対の、漆黒の髪をした女子だ。光のように、首元で長い髪を束ねている。
「ほら。顔洗って来なよ」
「あぁ駄目。顔がニヤけて戻らないの。もう少し待って……」
「ほんと、あんたって頑固な完璧主義者よね。だから恐がられるんじゃないの?」
翔はその意見に、大いに同意したい心持ちだった。
事実、この現場を目撃してからというもの、光に対して抱いていた恐怖感にも似た不信感はなくなっている。
翔は先刻、自分が光に訊いた言葉を思い出していた。
――『光さんって、可愛い人?』
(そっか……これが……)
翔が、自身が放った疑問に自分で答えを見出した時――手洗い場の前で、光が深呼吸をして姿勢を正した。
棒立ちのままだった翔は、そんな光とばっちり目が合ってしまう。
光の動きが、完全に静止した。
翔は何となく申し訳ない気持ちで、口を開く。
「ごめん……。聞く気はなかったんだけど……。なんて言うか――」
翔の言葉を全て聞かず、光は気を付けの姿勢のまま、卒倒した。




