第十話『魔女の皮を被った……』―2
「ところで、翔様」
依然、釈然としない様子ではあるが、翔が返事をした。
「………なに」
「この事、光さんにはお伝えするんですか?」
「え、伝えちゃいけない理由でもあるの?」
小首を傾げる翔に、康成が詰め寄る。
「だって、光さんですよ? 怒るんじゃないですか? 相手を先に亡き者にするとか……」
翔は、少し考えてひとり頷いた。
「光さんは、俺が誰かに負けるとか……考えてないから。ねぇ? 父さん」
翔が横を見ると、深叉冴が宙に浮いた状態で現れた。
「全くその通りだ! ところで、ヒデは帰ったのか?」
「うん。これ置いて行ったよ」
届いた封書を深叉冴へ手渡す。
既に裸状態の紙を広げ、深叉冴は全て目を通す前に「あぁ」と小さく漏らした。
紙を折り畳むと、深叉冴は封筒へ入れた。翔に返す。
「確かに、儂の知っている人物……だな」
思わず口から零れた言葉を、翔は聞き逃さなかった。
「父さん、この人知ってるの?」
首を傾げる翔に、深叉冴は気まずそうに眼を逸らす。
「あー……知っているには知っているが……」
「言いたくないなら聞かない。俺は、恨みなんて買いすぎてて、誰をいつどこでどうしたかなんて、よく覚えてないし……」
翔の溜め息で、湯呑の中の緑茶に小さな波紋が広がった。
深叉冴は、バツが悪そうに頭を掻く。
「いや、翔も覚えておる……筈……きっと……多分……」
自信無さげに尻すぼみになる声に、翔は微かに口を尖らせた。
「何でそんなに弱気なの……」
自分の記憶力の弱さには、自覚がある。
自分自身覚えている自信はないが、こうも不安そうに言われると少しばかりショックだったりする。
深叉冴は、そんな翔の隣に座るとかぶりを振り、翔の頭に手を置いた。
「翔は本人に会った事はないが、お前と同い年の男の子だ。儂が最後に会ったのは十歳くらいだったが、それはもう、父親似のイケメンっぷりで……」
ここまで聞き、翔の脳内には『同い年』という単語のみが残った。
一度言葉を止めた深叉冴が、翔の髪を弄ぶ。
「ちょっと父さん、俺の触角触らないで。コレ、俺の生命線だから」
「あぁ、すまん。手元にあるとつい……」
深叉冴が放すと、翔の触角は綺麗な弧を描いて頭から伸びた。
「大きくなったな……。儂が生きていた頃はまだこんな小さかったというのに……」
と、掌で大きさを表す深叉冴を、翔は半眼で眺めた。
「何それ、ハムスター?」
「ツッコミが出来るまでに成長しているとは……」
深叉冴は、出てもいない涙を拭う。
「翔とこんな風に話せる日が来るとは、正直まだあまり信じられぬもので……」
「何か、似た事、洋介にも言われた気がする……」
翔は、つい数日前のことを思い浮かべた。
深叉冴は、急須に茶を作り直している康成に顔を向ける。
「康成、随分と苦労をかけたな」
「いえいえ。僕は楽しく過ごさせて頂いてますよ。それより、翔様の頑固さと言ったら……」
空になった翔の湯呑に茶を注ぎながら、康成が溜め息を吐く。
深叉冴は声に出して笑った。
「それは儂ではなく、つぐみに似たな!」
『つぐみ』――翔の母親だ。
翔が五歳の時に病気で他界している。背は低いが気が強く、ふわふわと癖のある金髪が輝いていた。写真にも残っている。
笑い飛ばす深叉冴の様子に、康成は渋い顔を作った。
「笑いごとじゃないですよ。現在進行形で困ってるんですから」
「康成の頑固さだって、相当だと思うんだけど」
「聞こえませんね」
「はっはっは! 立派な、康成のかかあ天下っぷりで安心した!」
「……かかあ……天下……」
唐突に真剣な面持ちになった翔に、康成が疑問符を浮かべる。
「どうしたんですか? 翔様」
「そうか……康成は、俺の兄さんじゃなくて、母さんだったんだ……」
「いや、あの。どこから指摘すれば良いものか……色々言いたい事はあるのですが、それはちょっと畏れ多すぎると言いますか」
「良いではないか良いではないかー。今の翔は康成が育てたようなものだしな!」
「深叉冴様まで、悪ノリが過ぎますよ」
「実際のところ、家の中では財布を握っている者が一番強い。のう? 康成」
意地の悪い笑み――文字通り“小悪魔”のそれだ――を康成へ向けて、深叉冴は頬杖をついた。
そんな深叉冴に肩を竦め、康成が頷く。
「確かに、現在の家計の一切を請け負っているのは、僕です。でも、ずっとそういうわけにもいきませんから。翔様が正式にご結婚されたら、状況も変わってきますし」
「それ、俺ちょっと気になってる事があって……俺って、光さんの事、好きなのかな……よく分からないんだけど」
深叉冴と康成の時間が、止まった。
そもそも翔に“恋愛感情”が備わっているのかさえ、二人には判断が出来ない。
固まっている二人を余所に、翔が続ける。
「今まではね、『結婚が決まったんなら、いつかはそうしなきゃいけないんだろうな』って思ってたんだけど、何か、それって違うのかなって……。そもそも俺は、寝てる間によく分からない契約書に勝手に拇印押させられただけだし。ねぇ、どう思う?」
どちらともなく、訊いてみる。
だが、返事がない。
「聞いてる?」
「えっと……翔様は……光さんの事お嫌いなんですか?」
口調は控えめだが、ド直球な質問だ。
嫌い?
嫌い……なわけではない。
「嫌いじゃないよ。ただ、光さんの事、ちょっと恐いなって思ってたけど……。うぅんと……。『恐い』っていうのもなんか違うような……。俺にも、よく分からないんだ。でも多分、周りを蒸発さちゃう、俺の方が恐いんだよね」
翔のひと言に、深叉冴が先程の話を思い出した。
軽く握った右手で、左手の平をひとつ打つ。
「翔、蒸発と言えば、さっき言っておった果たし状の差出人は、お前が儂と一緒に蒸発させた敏晴の倅じゃよ」
先程とは打って変わって、さらりと明かされた事実に、今度は翔の時間が止まった。
「いやぁー、さっきは少しばかり儂の気持ちがシリアスモードになりかけたのだが。儂は重苦しい空気が苦手なのでな!」
軽快に笑い飛ばす深叉冴を、康成も苦笑いで見るしかない。
「そこが、深叉冴様の良いところですよね」
「いや、笑ってるけど、笑える事じゃないよね……?」
翔の表情が、一気に暗くなる。
「……父さんが気持ち悪い姿で復活してからは、ちょっと気が楽になってたのに……」
「『気持ち悪い』は聞き捨てならんが……」
半眼で言葉を突っ込んだ深叉冴を無視し――というか、本当に聞こえていないようだ――翔は頭を抱えた。
「これはもう、俺を殺して貰うしか……。いっそ、微塵切りにして豚の餌に……。そうすれば、俺でも生き返ることはないはず……」
「翔様、ちょっとは深叉冴様の前向きさを見習ってください」
どんよりと暗い背景を背負っている翔に、康成が嘆息した。
「だって、敏晴って……ずっと父さんと一緒に居たから。俺、遊んで貰ったりもしたし……」
「ほら、見てください深叉冴様。自分の行いをこんなに悔いる翔様を! 信じられますか?」
「凄いな翔! 父は嬉しいぞ!」
「その顔で言われても、俺は嬉しくないし……」
「はっはっは! 翔が跡形もなく消し飛ばしたから、元の姿で戻って来られなくてな!」
「深叉冴様、それは遠回しに嫌味です」
苦笑いで指摘する康成と、更に重く沈む翔。
「もう嫌だ……何で俺、あんな事しちゃったんだろ……俺が蒸発すれば良かったんだ」
「ほら、翔様が鬱化してますよ。深叉冴様、何とかしてください」
「翔、気にするな! 思春期にはよくある事だ!」
「よくあったら困るよ……せめて叱ってほしい……」
テーブルに突っ伏す翔の背中を叩きながら、深叉冴は未だに笑っている。
「はっはっは! 儂はお前を甘やかしすぎだと、ヒデや祝にも散々言われたぞ!」
まさか、ここ近年で翔様が急成長したのは、深叉冴様が居なくなったからでは――という考えが脳裏を過ったが、康成は口には出さず、胸中に留めた。




