エピローグ:芹沢凌の場合
「はーい。《天神と虎》の学校所有に関するデータと、ネット上に拡散されてたキメラ関係の記事や画像の削除終わったよー」
紫頭で片耳三角ピアス、首には白マフラーのひょろい男が万歳のポーズをしながら、座っている椅子をくるくる回転させて言った。
ここは《P×P》の事務所。通称“所長室”と呼ばれる一室。
所長である泰騎は自分の席に座って、ピンク色をしたウサギのぬいぐるみを弄んでいる。
「あんがと。拓人から依頼料貰うとるから、ワシの口座から指定額抜いといてー」
「あの子、そんなにお金持ってるの? お坊ちゃんは違うねー」
今回、合成生物に関する情報をネット上から消し去るのに、それなりの金額が動いた。
その作業を一手に引き受けた倖魅。彼はものの数秒で泰騎の給料三か月分の金額を彼の口座から引き抜き、自分の口座へ移し終えた。
「師匠が拓人の為に貯め込んどった金な。今回の件で殆ど使うみたいじゃで? 《自化会》本部の建て替えや設備とかに」
倖魅は興味があるのかないのか、へぇー、と吐息のような生返事。
「拓人、《自化会》の設備に関してよく文句言ってましたからねー」
黒猫の尚巳が、自分の机の上で丸まったまま、笑い混じりで言った。人語を喋る以外は完全に猫である。合成生物化を解く薬は、景が用意した。
臣弥は自分が作ると駄々を捏ねたが、地下は無事とはいえ、崩壊している《自化会》の環境では心許ない。結局、拓人が景に頼んだらしい。
尚巳に薬を投与して一日。まだ人間らしい部分は発現しない。
ガチャッと扉が開いて、レジ袋を両手に持った恵未が入ってきた。
「尚巳ー。コンビニで新作スイーツ全種類買ってきたから、食べ比べしましょ!」
「恵未ちゃん。いつも言ってるけど、今の尚ちゃんは猫だからね? 食べて良いものと悪いものがあ――」
「尚巳は人間だからいいのよ」
倖魅の言葉を最後まで聞かず、自信満々で、全く根拠のない持論を述べる恵未。
話題の猫はというと、尻尾をゆらゆらさせながら何を食べるか物色している。
「おれ、これにする」
小さな黒い前足が指し示したのは、マカロンだった。袋の中では、ピンク色のマカロンが三個並んでいる。ふたつは苺ジャムが挟まっていて、もうひとつはキムチ味のものだと明記されていた。
「猫になっても、尚巳は尚巳ねー」
恵未が袋を破って、中身をティッシュの上へ転がした。
尚巳は器用にひとつずつ咥え込んでいく。幸せそうに咀嚼しているので、誰も何も言わずにその様子を眺めている。
「うわっ辛! いや、甘!? やっぱ辛……なんだこれ!?」
どうやら二個目にしてキムチ味に当たったようだ。
目をしぱしぱさせている尚巳に、恵未がいちご・オレを差し出した。猫用の器に入れて。
尚巳は甘いそれを一心不乱に舌で掬い上げ、飲んでいく。それでも辛みは治まりきっていないようだ。
口から舌が出たままになっている尚巳を恵未がスマホの写真に収めていると、また扉が開いた。
両手いっぱいに紙袋を持った凌が、よたよたと歩いてくる。
外回り復帰初日。凌への貢ぎ物は普段の倍以上に膨れ上がっているようだ。今日は特に、営業先で女性に揉みくちゃにされていたのだろう。身だしなみは整っているが、スーツに若干のヨレがある。
「髪の事をイジられるし、食事に行けなかったお客さんには改めて謝罪して……。オレ、怪我して入院してた事になってたから……何か、快気祝いとか貰うし……」
訊かれてもいないのに、ブツブツと今日の状況を報告している。目が虚ろだ。声にも生気がない。
凌が下げている紙袋からは、花束もいくつか覗いている。それらをドサドサと机の上へ置くと、重く長い息を吐き出した。
全体重を預けるように腰を下ろせば、椅子も短く悲鳴を上げる。
「あー……。でも、拓人に肩こりの札貰ってるからか、体はかなり軽いな」
肩を回している凌の前では、倖魅と恵未が貢ぎ物を種類別に並べている。
倖魅はメロンを持って給湯室へ消え、恵未は行列の出来る洋菓子店のクロワッサンたい焼きを掲げて眼を輝かせた。
いつもの職場だ。
凌は無意識に安堵の息を吐いていた。賑やかで少しうんざりする事もあるが、今はこの空間が非常に落ち着く。
しかし、メンバーが一人足りない。
「潤先輩は、いつこっちへ戻って来れるんでしょうか」
福岡から帰ってからも、潤は《P×P》の事務所へ出勤してきていない。
たまに本社や事務所へ顔を出してはいるが、彼はまだ横浜に留まっている。
「今日は拓人に呼ばれて《自化会》の本部へ行っとるで。まぁ、来週には戻ってくるじゃろ」
所長は卓上の書類をひらひらさせながら笑った。
「それより、凌ちゃんも翔の家庭教師継続中なんじゃけん、がんばれー」
「それなんですけど、あいつ、記憶力めちゃくちゃ良くなったからオレ必要ないと思うんですよね」
責任逃れではなく、本音である。
「まぁ、一応今週は行きますけど。ついでに、拓人に除霊の方法も教わろうかと思ってます」
と言ったところで、倖魅が切ったメロンを持って現れた。
「はーい。凌ちゃんが貰ってきた、貢ぎも――」
ボンッ!
そんなくぐもった爆発音が室内に響き、煙か蒸気か分からない白いモクモクが立ち昇り……、それが晴れて現れたのは、口の周りにいちご・オレをべったり付けた尚巳だった。人間の姿をしている。当然といえば当然だが、全裸だ。
猫が水を飲む時の、蹲ったポーズのまま。
救いがあるとすれば、尻を恵未に向けていなかった事か。
「女子の目の前でこんな格好晒す日がくるなんてなー」
さしてショックを受けている様子のない尚巳は、手で口の周りを拭きながら言った。
「私は気にしないわよ」
「うん。恵未ちゃんはもうちょっと恥じらうとかしようか」
倖魅にそんな事を言われたが、恵未はきょとんとしている。
凌が営業部のロッカーから尚巳の着替えを持ってきた。
浮世絵がプリントされているパンツを渡しつつ、
「本当に人間に戻れたんだなー。どういう原理で、あんな小さな体から人間の肉体が出現したんだ?」
疑問を口にする。
“出現した”というよりは、“変身した”といった方がしっくりくる状態だ。
ともあれ、最大の心配事が解決した凌は一気に気が緩み、机に突っ伏した。
「あー……なんか……、たった二週間の内に色んな事が起こりすぎて疲れた……」
仕事で中国まで行き、親の仇と決闘し、負け、何故か家庭教師までさせられ、相方は猫にされるし、ろくに面識のない《自化会》会長から依頼され、ターゲットを始末するもその霊体に散々振り回された。思い返せば返すほど、散々だった。
だが、それにも全てケリがついた。今、家庭教師の事は凌の意識から排除されている。
ひんやりと冷たい机に頬をつける。油断すれば意識を手放してしまいそうだ。
そんな凌の心を読んだように、泰騎は手を振った。
「五時になったら起こしたるから、眠けりゃ寝てええで。ソファー使うか?」
泰騎が訊ねるも、返事がない。ついさっきまで開いていた目が閉じている。
「真面目な凌ちゃんが居眠りするなんて、よっぽど疲れが溜まっとったんじゃなぁ」
泰騎は言いながら、凌の背中にブランケットを掛けた。
ふと、着替え中の尚巳を見てひと言。
「あれ? 尚ちゃん、太った?」
猫になっている間散々甘やかされていた所為で、元々筋肉質だった体は見る影もなくなっている。
尚巳が声にならない悲鳴を上げていると、眠っているはずの凌が、ふふっと肩を揺らして笑った。一体どんな夢を見ているのやら。
こいつ……、と太めの眉を吊り上げた尚巳だったが、穏やかな寝顔を見ると文句が喉奥へ引っ込んでしまった。
尚巳は倖魅が持ってきた、爪楊枝の刺さったメロンをひと切れ口へ放り込む。そして、凌の鞄から仕事用のスマホを取り出して、凌のパソコンを開いた。
そのまま、凌が書くはずだった本日分の報告書を打ち込み始める。
凌は尚巳の軽快なタイピング音を子守唄代わりに、爆睡した。
十七時に起こすと言った泰騎がデートの為に早退し、倖魅は本社の情報部へ呼び出され、尚巳は社長に呼び出されて、恵未は即行で帰宅した為、誰も彼を起こす事はなかった。勿論、営業部の後輩たちも事務所には居るが、彼らがわざわざ所長室を覗きに来る事は無い。
ご丁寧に電気は消され、ブラインドも下ろされている室内。
深夜零時。暗闇で目を覚ました凌の絶叫が、室内に虚しく響いた事を知る者は――物陰で息を潜めていた、黒猫のみ。




