第五十六話『水面下では』―2
ホテルへ泊まった事など片手の指で足りるくらいしかない翔は、きょろきょろと室内を見回しては色んな扉を開けている。
光はベッドに座って、ルームサービスの一覧を眺めていた。夕食は用意するから心配要らないと泰騎に言われているのだが、ホテルへ来たら何となく見てしまう。
「光、光。お風呂小さいね。これじゃ二人で入れないよ」
「えっ!? な、ちょっ、そ……そ……、それは残念ね」
一緒に入る気など毛頭なかった光。不意打ちにノックダウンしそうになるも、何とか持ち堪えた。
シャワーを浴びたい気持ちもあるが、替えの下着が無い。
ルームサービスを捲っていくと、肌着などの衣類もあった。しかし、現金を持っていない。
小さい溜め息が出る。
すると、後ろから翔がひょっこり覗いてきた。
「光、着替えたいの? あの学校でお風呂入れなかった?」
《天神と虎》ではプール跡が大浴場となっていた。一度屋外へ出なければならないし、億劫だったのでシャワーすら浴びていない。顔を洗っただけだ。
自分がとんでもない姿で居る事に、今更気付く。
「買いたいなら買えばいいよ。俺はお金持ってるし。あ、外に買いに行こっか。拓人と潤に言って、八時までに帰ってくれば良いんだもんね」
名案とばかりに手を叩き、数秒後、翔は光を連れて隣の部屋をノックしていた。
出てきたのは泰騎だ。血塗れだった服ではなく、グレーのTシャツを着ている。ルームサービスの一覧に載っていたものだ。
「どしたん? 潤なら寝とるで」
「光の服買いに行っていい? 八時までには帰って来るから」
現在は七時前。幸い、少し歩けば店もある。
「ええよ。拓人にはワシから言うとくけん、早う行っといで」
手を振られ、光と共にロビーへ下りる。途中、女子三人組が何やら楽しそうに話ながら売店で買い物をしている姿も見えた。
街は、駅周辺とは違い少し落ち着いている。だが、店の明かりが周りを賑やかしていた。人通りはさほど多くない。
大きなショッピングモールこそないが、店は多い。スマホで周辺の店舗を検索した光の案内で、ファストファッションのチェーン店へとやってきた。
肌着は個包装されているので、洗濯しなくてもすぐ着られるだろう。
チャイナ服を着た少年とカントリーワンピースを着た少女が並んで歩く姿は、店内でも少し浮いている。
「シンプルなデザインしかないけれど、仕方ないわよね」
この際、贅沢は言っていられない。あるだけマシとする。下着を選んでいるのをじっと見詰められるのも恥ずかしいが、それも今は我慢するほかない。
肌着上下とタイツをかごへ入れた。
「ねぇ。明日着る服は買わなくていいの?」
丸二日着っぱなしで、明日で三日目になる。しかし、目立った汚れはない。
「これだけでいいわ。明日帰ったら着替えるし」
光がそう言うので、そのまま会計を済ませて再び街へ出た。
ゆっくり歩いて戻っても、充分二十時には間に合う。急ぐ理由もないので、二人は散歩をしながら帰る事にした。
荷物は翔が持ち、反対の手は光と繋いでいる。
細かい所に気付いたり、相手の気持ちを気にかけるところは、本当に別人になってしまったようだ。
「俺は元々、結構優しいんだよ」
心の中を見透かされたのかと思い、光の心臓が跳ねる。
「以前の俺なら、東陽を殺してただろうし、泰騎にも平気で『光のパンツ買いに行く』って言ってただろうね」
一緒に暮らしていた翔とは明らかに違う。だが、嫌ではない。むしろ、とても懐かしい。
「俺は今の俺の方が本物だから好きなんだけど、光は? 前の方が良かった?」
光は考える。一緒に暮らしていた翔は、忘れっぽいが彼は彼なりに人の中で生きる為、努力はしていた。
どちらにせよ、光の中で答えは出ている。
「どっちも翔だもの。どっちが良いとかないわ。それに、アタシが最初に好きになったのはアナタ。そして、一緒に暮らしていた翔でもあるのだから、アタシにとって今の翔は贅沢版よね」
翔のよく知る、したり顔。嘘は言っていないようだ。
翔は僅かに表情を緩めた。
翔は翔で、光に受け入れられているのか少しばかり気にしていたのだろう。
「俺は“寒太”だった時の記憶が強いんだ。まぁ、この前までの俺は物忘れが酷かったから、仕方ないんだけど」
寒太の時に見た景色や“翔”の様子、テレビ番組の内容などの記憶は鮮明らしい。
「でもね、半分だったころの“翔”の記憶から漏れた部分も、少しずつ思い出すはずなんだ」
家出の事、中学校での生活、高校へ入学してからの事も。翔が言うには、忘れている所は脳の一部が破損している状態らしい。それが、時間と共に修復されていくのだという。
「だから、もう忘れりしないよ」
僅かに握力の込められた手を、光も握り返した。
光は、ずっと気になっていた事を口にする。
「翔は……、アタシで良いの?」
こんな質問、今更なのかもしれない。
翔から婚約をやり直してくれたのに。野暮な疑問だろう。それでも確かめておきたかった。
“俺”はね。翔が溢すように言葉を発する。
「あの満月の夜、薔薇の中で出会った女の子がずっと好きだよ。きっと、一目惚れっていうやつなんだろうね。でも、本能が直感的に好きだと思ったんだから、それ以上の理由は要らないんじゃないかな」
翔は赤い眼を細めて笑う。
光は以前、自分が言った言葉を思い出していた。
“好きになるのに理由なんていらない”。
好きなところを挙げろと言われればいくらでも出せるが、根底にあるものは言葉では言い表せられないだろう。お互いに。
そう思うと、火がともったような温かさが光の胸の奥にじんわりと広がった。
「あ、ところでさ」
「何?」
「小学校で、東陽たちに嫌な事されなかった?」
ぎく、と少しだけ反応してしまった。
裸にひん剥いて校庭に放り出したら……、と言われた時の事が頭を過ってしまったのだ。もうこの世には居ないとはいえ、折角わだかまりなく逝った人物を悪者にする気にはなれない。
「東陽さんにはされていないわ。拘束はされたけれど、彼の立場を思うと当たり前の事よ」
翔が、本当に? と勘ぐってきたが、光は毅然とした態度でやり過ごした。
「それより、お兄ちゃんよ。《天神と虎》に居たはずなのに、いつの間にか居なくなっちゃって……」
「ははははは! 妹よ! そんなに俺様の事が心配だったのか!」
突如、高笑いと共に現れた兄。疾風丸も一緒だ。隠密モードでここまで来て、それを解いたのだろう。
それにしても唐突すぎる登場に、光は目を皿のようにしている。
翔は、あからさまに眉根を寄せて、嫌悪感を露わにした。
光と一緒に居たのに一人だけ逃げるなんてどういう事? と。赤い眼が言っている。
輝はいつもと変わらず、飄々(ひょうひょう)と言った。疾風丸を消して。
「俺様はここを抜け出し、深叉冴と会っていたんだ! 秀貴は上海でプライベートジェットに乗り換え、今はドイツへ向かっているぞ!」
翔と光の頭上に、大きな疑問符が浮き出る。




