第八話『訓練初日』―2
徒歩と電車で移動し、九時半には《自化会》の本部へ着いた。
自室に寄る拓人と別れて廊下を歩いていると、男と女の大きな怒鳴り合いが聞こえてきた。
聞き覚えのある声だ。あまり関わりたくはない。
翔が声の方角を避けようと、立ち止まった時――白檀の香りが鼻腔をくすぐった。
「よぉ」
同時に、背後から声を掛けられる。
「っ!!」
咄嗟に振り返る。
すぐ後ろでは、秀貴が眉間に眉を寄せて訝しんでいた。
「……何だよ」
驚きすぎて、翔は上手く声が出せない。
「け……」
「毛?」
秀貴の眉間に更に皺が寄る。
「……気配、が……」
硬直している翔の表情とは反対に、秀貴が気怠そうに首の後ろを掻いた。
「え――、あー……そんな吃驚する事か?」
「……俺、こんなに近くの……人間の気配分からなかったの……初めて、で……」
翔の頭から飛び出ている毛の固まり――触角――は、前頭葉部から伸びている。
胎児期に、脳細胞部に癒着したこの部分に朱雀の能力が集中しているのだ。
空間認知も、自分の周りに居る生き物の気配察知も、この触角があるからこそ野鳥並みの力を発揮しているといえる。
どんなに気配を殺して近付かれようと、それに気付けなかったことなど、翔には無かった。
「あぁ、そんなに遮断性有るのか……」
秀貴が、自分の手首を見ながら小さく呟いた。
が、翔の耳へ届いたその言葉は右耳から左耳へすり抜けていった。
翔は、じっとりと湿った自分の服に気付いた。
気持ち悪いほど冷や汗をかいたのも初めてだ。
珍しく、挙動と表情に表れるほど動揺していた。
「そんなにショックだったのか? ま、お前みたいに“視なくても分かる”奴にも、盲点ってのはあるんだよ。覚えとけ」
秀貴は、翔の肩を軽く叩いた。
その右手首には三種類の腕珠がつけられている。
「じゃあな。俺も後で格技場行くから」
秀貴の背中を棒立ちのまま見送り、翔はあることに気が付いた。
自分の着ている服の裾を引っ張る。
「……服、着替え……無いや……」
「で、オレんトコに来たのか」
拓人は、部屋に備え付けられているクローゼットを開けた。
中には、複数の半袖と長袖のTシャツが掛けられている。
翔は俯いたまま呟いた。
「だって、部屋知ってるの拓人だけだし……サイズも同じくらいだし……」
拓人の投げた服が、翔の頭上に着地した。
それを掴み、翔が広げる。
無地の黒いTシャツ――と思いきや、フロントに『OKOME』と、米粒のキャラクターがプリントされていた。
「服の好みとか言うなよ。予備だから、どれも似たようなのしかねぇんだ」
「あ……うん。ありがと。……で、ね……拓人、ちょっと訊きたいんだけど……」
歯切れの悪い翔の物言いに、何だ? と拓人が訊ねる。
尤も、翔の場合は何かをきっぱりと言い切る事の方が少ない。
「あのさ……秀貴って……何なの?」
いきなり漠然とした質問を投げかけられ、拓人が嘆息した。
何で今それを訊くんだ。という疑問も浮かんだが、それも拓人にとっては慣れたものだ。
翔の投げかけてくる質問は、いつも突拍子がないからだ。
「……そうだな……」
数秒考えてから、クローゼットを閉める。
「オレが知ってんのは『人間離れした只の人間』って事くらいかな」
拓人の答えを聞き、翔は「え……」と声を漏らした。
いつも眠そうに半分くらいしか開いていない眼を、大きく見開いて口を半開きにしている。
「人間、なんだ……化け物かと思った……」
心底驚いているのであろう事が伺える翔の顔を見て、拓人が堪らず吹き出した。
「おまっマジか! ははっ! お前がそれ言うか!? ヤベェ……ソレ、今年一番のヒットだわ!」
腹を抱えて笑う拓人を眺めながら、翔は「ホントにそう思ったんだもん」と呟きながら、“OKOME”Tシャツの袖に腕を通した。
◇◆◇
《自化会》本部の奥にある格技場には、Eグループの面々が揃っていた。
最後に到着したのは、拓人の部屋で着替えていた翔だ。
が、集合時間の十時には間に合ったのでお咎めはない。
「皆揃った所で……翔、今日の訓練スケジュールは?」
当然のように訊いてくる秀貴に、翔は開いた口を閉じられずにいた。
開きっぱなしの口から、そのまま声を出す。
「そんなのないよ」
当然のように答えた。続ける。
「取り敢えず俺は、皆が何が出来るのかを知りたい……かな。訓練内容はそれから考えれば良いんじゃないかな? って思うんだけど……秀貴はどう思う?」
顔を向けたまま訊いてくる翔に、秀貴は頷いた。
「あぁ。良いんじゃねぇか? さっき格技場の周りに結界張って来たから、どんなに暴れても壊れるのは格技場だけだ。直すのは臣弥だし。思い切りやってくれ」
秀貴の言葉に、翔の瞳が輝く。表情は変わっていないが。
「ホントに?」
「あぁ」
「じゃあ。皆、俺を全力で攻撃してきて」
目を爛々とさせている翔の広げられている両手を振り落として、秀貴が叫ぶ。
「って、お前一昨日もそれやっただろ!」
「違うよ。一昨日は威の攻撃しか受けてない。今度は全員が良い」
「…………」
まるで子供の我儘のような言い振りに、秀貴が眉間を力ませた。
(こいつ……ちょっと見ない間に、会話ができるまでには成長したな。と思ったら……自己主張するようになった分、すげぇ扱い辛くなってやがる……)
秀貴の無言を、「GO」と解釈した翔が、両手を広げた。
「じゃあ、皆一斉に……」
「待て待て、待て。今回お前が血まみれになると、光に睨まれるのは俺なんだぞ」
「え、秀貴も光さんの事恐いの?」
翔はぱちくりと瞬きをし、秀貴を見た。
秀貴はうんざりと顔を逸らす。
「恐いんじゃなくて、面倒なんだよ。女は怒らせると厄介だからな。特にお前の嫁は、根に持ちそうだし」
「……まだ結婚してないんだけど……」
翔の呟きは無視し、秀貴がひとつ、手を叩いた。
視線は前方に居る、翔以外に向けて。
「じゃあ、翔以外の奴ら。皆一斉で良いから俺に向かって攻撃してみろ」
「……それって俺と同じなんじゃ……」
むすっとぼやく翔に、秀貴はデコピンした。
「最初から怪我目的のお前と一緒にするな。俺はちゃんと防ぐから、お前はしっかり視とけ。あと、電子機器持ってる奴はこのケースに入れとけよ」
言いながら、秀貴はアクリルケースを前に出す。
「この中に入れずに壊れても、文句言うなよ」
各々、ポケットからスマートフォンやタブレットを取り出して、ケースへ入れた。
アクリルケースに蓋をし、袖から取り出した札を貼ると、秀貴は再び皆の方へ向いた。
「じゃあ、翔。俺じゃなくて、こいつらの能力値的なものを視ろよ。俺の事見たって、参考になりゃしねーから」
翔が「うん」と頷くと、秀貴は自分の左手首に右手を持っていった。左手首にも右と同様に、三種の腕珠がつけられている。
右手から一種だけ抜き去ると同時に、空気が弾けた。
翔は、辺りに漂う強烈な磁力に呼吸を忘れた。
(これが『只の人間』? 拓人の嘘つき……)
翔にはこれが電磁波の一種だと直感で理解できたが、他のメンバーは何が起きているのか分かっていない。
「痛っ! なんかピリピリする」
「きゃ! スカート捲れる!」
「わぁ、凄いですね! 産毛立ってるー!」
最後の呑気な声は、自分の腕を見ている東陽だ。
「おい。お前ら、そんな事言ってる間に三回は死んでるぞ」
これだから、ガキは嫌いなんだ。
呟いた言葉は、翔にのみ届いた。
「俺は何もしねぇから。早くしろ。全力じゃねーと意味ねぇぞ」
秀貴に促され、威が先日と同じようにミドリをサボテンへ変化させた。
同時に朱莉も、大小二体の陶器人形を動かす。
東陽は、腰に下げていたベルトからナイフを五本抜き、宙に放った。
言われた通り、一斉に秀貴を攻撃する。
距離は一〇メートルほど。
普段ならば、確実に射程内だ。
だが、どの攻撃手段も秀貴に届く前に無効化した。
ぼとぼとと針は落ち、かしゃんと人形は床にぶつかり、ナイフは床に刺さった。
本当に何もしていない秀貴は、腕を組んで立っているだけだ。
何が起きたのか理解できない面々は、呆気にとられて棒立ちしている。




