第五十五話『義兄弟』―4
イツキは目の前にある薄い板を透視して、アサヒの姿を確認した。細々(こまごま)した怪我はあるが、無事のようだ。
真昼とは似ていない顔をしている。そんな事を考えていると、薄い板のようなものが外れ、肉眼でも確認できるアサヒの顔が覗き込んできた。
「イツキさん、今助け…………」
言葉が途切れる。
アサヒの視線はイツキの下半身に向けられたまま止まった。アサヒの、絶望的な思念が流れ込んできた。
(あぁ……見えなくて良かったな……)
自分はもう助からないんだと確信した。
伝えたい事も特に思いつかず、イツキはアサヒに向かって虚ろな眼を向けるのみ。
「……僕……」
ぽつりと、イツキの頬に水滴が落ちてきた。もう雨は上がっている。空は綺麗な茜色をしているのだが――イツキには空が今、どんな色をしているのか分からない。
ただ、水滴がアサヒの目から零れている事は理解した。
(あぁ、いいよ。他人みたいな僕の為に泣かなくたってさ)
ついつい卑屈になってしまう。そんな考えとは裏腹に、顔はどんどん濡れていく。
「僕、姉さんとイツキさんが結婚した時もここには居なかったし、滅多に話しも出来なくて……」
頷く事も出来ず、イツキは心の中で、そうだね、と同意する。
「僕は……姉さんと弟しか居なかったから、お兄さんが出来たの嬉しくて……でも何だか照れくさくて『兄さん』って呼べなくて……ユウの事が妬ましいくらい羨ましくて……」
アサヒの今まで胸中に溜めていた思いも、涙と一緒に流れ出る。
ぽつぽつ吐露するアサヒを、イツキは霞む視界で捉えていた。白黒のすりガラスを通したような世界で、アサヒの声だけが鮮明に聴こえる。
普段の大人びた雰囲気を忘れさせる、少年の声。嗚咽に震えているが、何故だかとても聴き取りやすい。
返事をしたいのに声が出せないのが歯痒くて仕方がない。
「もっと一緒に居たかった。イツキ兄さん」
その言葉を聴いた瞬間、動くはずのない表情筋が穏やかに動いた気がした。
だが、イツキの意識はそこで途切れた。
イツキの瞳から光が消えて、一瞬だけ彼が微笑んだように見えた。今目の前にあるのは、笑みこそ浮かべていないが、どこか穏やかなイツキの顔。
アサヒはイツキの瞼に触れて瞳を隠した。擦り傷などはあるものの、綺麗な寝顔をしている。
「お兄さん、死んじゃったね」
後ろから聞こえた声に振り向く事はせず答える。
「兄といっても、義理の兄ですけどね」
「義理でも、お兄さんはお兄さんだよ」
声は隣に並んできた。
翔は他人の死に対して無感情なのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
言い方はぶっきらぼうだが、感情は読み取れる。
「お兄さん、いい顔してるね。気休めでもさ、ちゃんと弔ってあげなきゃ」
それを聞いてハッとする。
そんな費用は持ち合わせていない。いや、そもそもイツキは敵対組織の幹部で、自分は内通者だ。きっと殺される運命にあるだろう、と。
後藤朝陽にとっての人生は、散々だった。幼少期は幸せだった気もするが、よく覚えていない。
小学生の頃に両親が死んで、少しだけ祖父母の家に厄介になった。しかし、そこでの生活も貧しく、姉はバイトを始めた。
学校で弟の夕也がクラスメイトの腕をねじ切ってしまい、大惨事となった。
そこから、生活は更に厳しくなる。
優しかった祖父母からは気味悪がられ、怖がられた。
ある日、夕也が言った。
「下ろしたての年金を手に入れたからズラかるぞ」
と。
弟は祖父母を殺して、年金を奪っていた。
そこからの生活はよく覚えていない。毎日生きる事に必死だった。
ホームレスの溜まり場を点々としていた。
その頃から弟は「周りの奴らが悪いんだ」と言い出した。夢物語のような企てを、楽しそうによく話していた。
正直、朝陽はそんな事よりも、平穏に暮らしたいと思っていた。だから、念動力は人前で使わなかった。
なのに、弟は腹を立てるとすぐに人を傷つける。
同じ顔をしている所為で、街中を歩いているだけで覚えのない因縁をつけられ、暴行を受けた回数は数えきれない。
その頃から、夕也がしないような表情を作るよう心がけるようになった。それでも知らない連中に絡まれる。
朝陽は、だんだん外出をしなくなった。
姉はバイト中に知り合った男と付き合い始めた。
何故か周りは弟の壮大で愚かな計画に乗り気で、誰も「無理だ」とは言わなかった。
朝陽はそんな中で、一人だけポツンと取り残された気がしていた。
「世界征服なんて出来るはずがない」
そのひと言が発せなかった。
そんなある日、弟が言った。
「朝、お前、神奈川にある組織に潜入捜査に行ってくれよ」
ふざけるなと思った。
自分はただ、貧しくても良いから家族で仲良く暮らしたいだけなのに。何で自分だけ、そんな遠い場所へ行かなければならないのか。
そんな不平不満が沸騰した。
しかし、姉や弟の行動についていけなくなっている自分も居た。
これは、もしかすると新しい生き方を見付けるチャンスなのかもしれない。
そう思い、朝陽は十二歳にして単身、神奈川県へ向かった。
《自化会》へ入るのは容易だった。孤児を装えばすぐに受け入れてもらえた。
施設内には特殊な力を使う子どもも居たし、居心地は悪くなかった。何より、衣食住が確保されているので、今までよりずっと良い暮らしが出来た。
学校へも通えたし、友人も出来た。四人部屋だったので、家族と連絡を取るのには苦労したが……。
学校といえば、合成生物の所為で延期になった文化祭。合成生物の事を聞かされたのは直前だったので、文化祭の準備は周りと協力してしっかり行っていたのだ。
本番を迎えられないのは少し残念だな。そう思った。
「ねぇ東陽」
至近距離から声がした。感情の乗っていない声。されども、小鳥のさえずりのように澄んだ声。
「東陽はどうしたいの?」
ここへ来て幾度も訊かれた問い。
その答えが、少しだけ輪郭を現した気がする。
「翔さん、僕……我が儘かもしれないですけど……、もう少し、生きていたいです。生きて、少しでも僕や家族の犯した罪を償えられたら……って」
それは、この人の問いかけに対する明瞭な答えではないのかもしれない。それでも、今の自分にはこれ以上ない答えだった。
すると、隣にしゃがんでいる人物は赤い眼を細めてこう言った。
「うん。良いんじゃない?」
大勢を騙してきた罪悪感や、家族を失った悲しみや、蓄積されていた疲労感や……張り詰めていた様々なものが緩み、熱いものが頬を伝って落ちていった。




