第五十四話『別れ』―3
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「ミコトちゃん、こっち」
軽い足取りで、黒猫が体育館裏へやってきた。
出来るだけ、雑草の生い茂るそこを掻き分けていく。
その後ろを、大きなリュックを背負い、前には抱っこ紐に収まっている赤ん坊を連れたミコトがついていく。
凌が去った後、尚巳は地下牢にあるイツキの隠れ家ならぬ隠れ部屋にミコトを招き入れた。
そこで、自分の荷物から現金とクレジットカードの入った財布をミコトに渡した。
「カードの暗証番号は3307。後ろから“ナオミサン”な」
急にカードのパスワードを教えられ、ミコトが目を剥く。
尚巳は構わず続けた。
「カードは一か月後に使えなくするけど、それまでは自由に使ってくれれば良いよ」
と伝える。
ミコトは今にも泣き出しそうだ。
「何で、あたしに……そこまでしてくれるの?」
「おれがここで生きていられたのはミコトちゃんのお陰だから。正直、命の恩人に渡すものとしては少なすぎるくらいなんだけど……。今のおれじゃ、これが限界だな」
親友を失うかもしれず、行くあてもない――しかも、自分の子どもではない赤ん坊を連れている人物に与える精神安定剤としては不足かもしれない。
それでも、無いよりはマシだろう。
そんなこんなで。
尚巳とミコトとコーセーは、体育館の裏――雪乃が蔓のバリケードを空けてくれているという地点へ到着した。
そこには、大人が一人歩いて通れるだけの穴が空いている。
黒猫は後ろを警戒しながら、穴へと進むミコトへ顔だけ向けた。
「それじゃあ。ミコトちゃん、元気でな」
「な、ナオミ君も一緒に行かない?」
おずおずと問うミコトに、尚巳ははっきり首を横へ振って拒否した。
「おれは――」
ガサッ。
茂みを掻き分け、合成生物が現れた。
両腕がザリガニのように大きなハサミ。体は人間だ。
頭には蝿やトンボのように複眼を持っている。
喋る事が出来ないのか、顎をガチガチ鳴らしながら両腕を振り上げて威嚇している。
猫の尚巳ではなく、ミコトに向かって走る複眼男。
しかも、複眼からはビームのような光線が飛び出す。只の光りなのか、アニメでよく見る荷電粒子砲のようなものかは定かではないが――ミコトが悲鳴を上げるより早く、複眼男は胸元から鮮血を噴き上げて雑草の中へ倒れた。
目をしばたたかせているミコトが、尚巳を指差す。
「ナオミ君……ソレ……、何?」
「あー……おれ、フルーツナイフを持ったまま合成されたからさ」
尚巳の前脚の関節からは、イツキに渡されたセラミック製ナイフの刃が突き出ている。
血が付着しているそれを、尚巳は何事もなかったように前脚の中へ戻した。ナイフを吸い込むように収納すると、ナイフが出ていた場所は再び毛に覆われて見えなくなった。
「何で今まで出さなかったの……?」
「え? 必要なかったから」
武器を使うような場面に出くわさなかったので、使わなかった。ただそれだけだ。一体、何が不思議なのか。
尚巳は小首を傾げた。
「それより、早くいかないと。またキメラが来るかも」
「ナオミ君も……」
先程首を横に振られたが、ミコトはもう一度、すがるように手を伸ばした。
そして、再度首を横へ振られる。
「おれは《P・Co》の人間だからさ」
それだけ聞いてミコトは少し俯いたが、すぐに顔を上げる。
大きな口の角を無理矢理押し上げ、笑顔を作った。
「ばいばい」
別れの言葉だけを残して、コーセーを連れたミコトはバリケードの外側へ消えた。
「良い娘だったな」
ポツリと呟き。
尚巳は穴のあいた蔓のバリケードへ歩み寄る。
蔓に前脚をあて、声を掛けた。
「雪乃お姉ちゃん、聞こえる? おれ、703番のなおみ。赤ちゃんは逃がしたから、穴、塞いでほしいな」
蔓が一度大きく波打った。
焦っているのか、単に驚いたのか……。
どちらにしても尚巳は、少しかわいいな、と僅かに笑った。
少ししてバリケードの穴が塞がり、尚巳は校舎へ戻る為、体をしならせて跳ぶように走った。
校庭で遠足――否、休憩中だった雪乃は、蔓を伝って届いた呼びかけに動揺を隠せないでいた。
「なお……尚巳君、何でここに……」
雪乃の呟きにいち早く反応したのは、同じく休憩中の泰騎だった。
血塗れの服の上には、朗らかな顔。
「尚ちゃん生きとん!? 良かったー!」
クッキーを持ったまま万歳をしている。
尚巳が《P×P》に居る事は秀貴から聞いていた雪乃だが、《天神と虎》に来ている事は聞いていない。
「あの……尚巳君、猫さんに視えたんですけど……」
「それは、普通の猫でしたか?」
潤の問いに、雪乃がぎこちなく頷く。
「黒猫さんでした」
「あ、そっか。雪乃ちゃんは尚ちゃんがキメラの材料にされたん知らんかったんか」
泰騎のビックリ発言に、雪乃が目を白黒させた。
泰騎が、《天神と虎》へ潜入捜査中、尚巳が合成生物の材料にされた旨を話す。
「雪乃ちゃんは尚ちゃんと《自化会》の養護施設で育ったんよな?」
「はい。その頃は番号で呼ばれていて……。尚巳君は703番でした。いつも笑顔で、小さい子の面倒もみる、とても良い子でした」
昔を懐かしむように穏やかに話していた雪乃だったが、良い思い出ばかりではないようで顔に影が落ちた。尚巳同様、雪乃も“帰ってこない施設の仲間たち”を何人も知っている。
「尚ちゃんは今もええ奴じゃで!」
泰騎の明るい声を聞き、雪乃は顔を上げた。
「後輩の面倒見もいいしな」
潤も、紙コップでハーブティーを飲みながら同意する。
二人の言葉を聞き終えた時、雪乃はいつもの笑顔に戻っていた。
「あまり詮索するのも悪いと思って私からは訊かないようにしていましたけど……尚巳君の事が聞けて、何だか溜飲の下がる思いです」
「尚ちゃんが元に戻れたら、皆で雪乃ちゃんの喫茶店に遊びに行くわー」
「戻れるのか?」
潤が素朴な――だが確信的な疑問を向ける。
「わっからーん。でも、生きとりゃ何とかなるじゃろ!」
幸い、今回居た複数の合成体ではなく人間と猫の融合体だ。
望みはあるかもしれない。
ただ、完全に黒猫の姿となっているのだ。
だとしたら、尚巳の肉体はどうなってしまったのか。
どうなってしまうのか。
「ま、今考えてもしょーがねーがん。生きとっただけで万々歳。次の事はこの件が終わってから考えようや」
泰騎は軽い笑い声をたてた。
クッキーを口へ放り込んで、天を仰ぐ。
先程まで降っていた雨も止み、天井部分にある明り取りから見える空は赤みがかっている。
腕時計を確認すると、夕方の四時半を回ったところだった。
 




