第八話『訓練初日』―1
「翔様ぁー。朝ご飯ができましたよー!」
一階から聞こえる声には応えず、翔は霞む目を擦りながらベッドから腰を上げた。
寒太は狩りに出かけたらしく、姿が見えない。
いつものことなので、気にせず階段へ向かった。
「何度言えば分かるかな……」
寝癖のついている髪はそのままに。
といっても、いつも寝癖のような髪型だ。
翔は半眼で康成を睨む。
「何度言われても分かりません。戸籍上は兄弟でも、僕は深叉冴様から翔様の事を任されているんですから」
康成は味噌汁を翔の前に置きながら、そっぽを向いた。
翔は、湯気の立っている味噌汁の椀を手に取る。
汁の表面に顔を出している豆腐を眺めながら、
「康成って頑固だよね……」
「翔様程じゃないです」
康成も翔から視線を外したままだ。
そこへ、朝の挨拶を述べながら拓人が現れた。
長男と末っ子の様子を交互に見やる。
「何、またやってんのか? 余所の家庭の問題に首突っ込む気はねぇけど、頑なだな」
ムスっと味噌汁をすする翔の隣に座りながら、拓人が溜息を吐いた。
康成が拓人の前にご飯を盛った茶碗を置く。
「拓人君、どっちの事を言ったんですか?」
「ふたりとも、ですよ」
拓人が「いただきます」と手を合わせた時、勝手口から倫が現れた。
お多福のようなお面は、頭の後ろへ回されている。
「あ、翔に拓人君、お早うー! 今日も晴れるみたいだから、暑さ対策しっかりね!」
ニワトリのように、朝から元気だ。
それに加え眩しい程の笑顔を披露している。
頬が赤い所為で、一層幼く見えた。
「見てよ。この倫の気さくさ」
翔が康成に目を向ける。
「倫さんの適応力が羨ましい……」
「え、康成さん、何か言った?」
倫が、大きな瞳をぱりくりと瞬かせる。
康成はうんざりしたとも取れる表情で、息を吐いた。
「いえ、何でもないです……。ところで、光さんはどうでした?」
「あぁ、朝ごはんは要らないからもう少し寝とくって、ドアの前にメモが置いてあったよ」
倫が持っているメモには、“昼食はサンドイッチと紅茶が良い”と小さく書かれていた。
光は男連中とは違い、廊下で繋がった別棟にひとりで住んでいる。
男所帯なので、自然とそうなった。
食事は康成と倫に任せているが、洗濯や掃除などは自分で行う。
メモを横目で見ながら、翔が呟く。
「光さん、疲れてるんだろうね」
「そりゃあ、疲れるだろうな」
ほうれん草の入った卵焼きを飲み込み、拓人が湯呑を持った。
「そういや、翔は今日メンバーで集まるんだっけ?」
「あ、うん。えっと……頑張る」
覇気のない気合の言葉を聞かされた拓人が、頷く。
「おぉ、がんばれ。明日学校あるし、この前みたいに『ものもらいが出来た』って言い訳できるレベルの怪我で止めとけよ」
「それって、俺が怪我するって前提なわけ?」
膨らんでいる翔の頬に、拓人が人差し指を突き刺す。
翔の頬が、マシュマロのように沈んだ。
「一昨日、盛大に串刺しになってた奴が何言ってんだ? ウチの連中、マジでドン引きしてたんだからな?」
「康成にも盛大に叱られたから、もうその話止めて……」
「そうですよ! すぐに治るって言っても、万能じゃないんですから!」
拓人の向かいに座りながら、康成が声を大きくした。
「大丈夫だよ……。秀貴も居るし」
翔の言葉に、拓人が顔を顰める。
「親父が居るから大丈夫って、んな安心してっと痛い目見るぞ?」
残り少なくなったご飯を一か所に集めながら、拓人が呟いた。
「あれ? そういえば秀貴さんってあまり見かけないけど、普段何してるの?」
自分の朝食を用意し終えた倫が、拓人とは反対側の翔の隣に座ってきた。
「さあ」
素っ気無い返事をされ、倫が首を傾げる。
拓人が続けた。
「昔っからだけど……ここ数年は特に、ふらっと居なくなって、数日から数か月したらまたふらっと帰ってきて、またすぐどっか行くから。あんまり話しもしないんですよ」
「秀貴さんは、拓人君のこと大切に思っているんですね」
「は……?」
康成の言葉に、拓人が口元を引き攣らせる。
普段ほったらかしにされているのだから、当然と言えば当然な反応だろう。
拓人が秀貴に唯一感謝する事といえば、金には困っていないという事くらいだ。
「さっきの話から、どうなったらそういう事になるんですか……」
半眼で問う拓人に、康成は涼しい顔を向けた。
「さあ? 拓人君も、もうちょっとお父さんに興味を持ったらどうですか?」
にっこり笑う康成に、拓人が眉根を寄せる。
「……康成さん、会長みたいな事言いますね」
「そうですか? まぁ、余所の家庭の問題に首突っ込む気はないんで、聞き流して下さい」
康成は笑顔のまま、味噌汁を口内へ招いた。
腑に落ちない表情で、拓人は手を合わせる。
「……ごちそうさまでした。オレも今日本部行くから、一緒に出るか?」
翔は、黙々と鯖の骨を除けていたが、拓人へ顔を向けた。
「うん。すぐ行くの?」
「翔、準備できてんのか?」
「うん。俺が持って行くものって、ひとつだけだし。食べたら拓人の部屋行くよ」
「りょーかい。んじゃ」
拓人が空の食器を持って立ち上がる。
翔が鯖に向き直った。
「ところで」
倫が呟くと、翔は倫の方へ目だけ向けた。
「深叉冴さんはどこへ行ったんだろうね? 一昨日から姿を見ないんだけど」
鯖の身を口へ運びながら、翔が答える。
「父さんなら、嵐山や秀貴と用事があるからって消えたきりだ……よ」
骨が残っていた。翔は顔を顰めて、口から小骨を取り出した。倫は「そうなんだー」と気の無い返事をしている。
翔は鯖の骨を皿の縁にくっつけた。
「俺もよく知らないし、あんまりあの顔でフラフラしてほしくないんだけど」
「翔は今の深叉冴さん苦手だよねー」
「自分と同じ顔だよ? 嫌だよ。俺、昔の父さんが好きだもん」
「深叉冴様は凄く気に入ってるみたいですけどね」
康成が苦笑すると、翔は重い息を吐き出した。
「それが益々嫌なんだよね……」
「でもまぁ、最終的にああなったのは光さんの好みだから、仕方のないことだよね。光さん、翔のこと大好きだもの。だから深叉冴さんをこの世に喚ぶ為に、凄く頑張ってたし」
倫は当たり前のように話したが、場の空気は置いてきぼりを食らっていた。
「え……あの……俺、色々知らないんだけど……倫って、光さんと仲良いの?」
翔が、瞬きを忘れて倫を見る。
「え? うん。普通に話す程度だけど……あ! 別に、ヤラシイ気持ちで話したりしてないよ?! 確かに、光さんって凄い美人だから、最初は緊張したけど! 今は友達感覚って言うか!」
ぶんぶんと首を左右に振って、肯定と否定と言い訳じみた事を同時に行う倫。
そんな倫の様子を見て、康成が「あぁ」と小さく手を叩いた。
「そういえば、光さんはよく倫さんの事を呼び出しますし……。倫さんってご近所のおば様方ともよく話込んでますね」
「倫って、人と話すとき顔が赤くなるだけで、ウチで一番社交性あるよね……」
翔が、残り少ない味噌汁をすすった。
康成は、翔に笑顔を向ける。
「ね? 翔様、倫さんの適応力、羨ましいでしょう?」
「うん。羨ましいね……」
この日初めて翔が、『翔様』と呼ばれて返事をした瞬間だった。
翔は、合皮製の木刀袋を肩に下げて拓人の部屋の前に立った。
三度のノックで、部屋のドアが内側から開けられた。
部屋から出てきた拓人は、スクエア型のリュックを背負っている。
登山や旅行をするためのものではなく、普段使いのものだ。
拓人は翔の装いをひと通り眺めてから、声を発した。
「ホントに荷物それだけなんだな」
疑問視され、翔が自分の身体を見下ろす。
「え……おかしいかな……でも、拓人も荷物少ないよね?」
「本部の部屋にも荷物は置いてるから、オレはこんだけで良いんだよ」
「そっか……拓人、本部にも部屋あるもんね」
話しながら廊下を歩いていると、玄関付近に寝巻き姿の光が立っていた。
髪は後ろでひとつに束ねられている。
「おはよ。出かけるの?」
話しかけられ、一瞬、翔が体を強張らせる。
どう説明したものかと思考を巡らせた。
光も訓練の事は知っているので、言い表すのは簡単だ。
「あ、うん。例の訓練で、本部まで行って来る」
「そう」
実に短く、素っ気無い返事を寄越された。
翔は内心、ほんとに俺の事好きなのかな? と疑ってしまう。
とはいえ、一応は一緒に生活している仲だ。
「あ……あの、光さん、無理しないようにね」
翔がおずおず声を掛けると、光は腕を組んで口角を上げた。
「誰に言ってるの? アタシ、無理なことはしないの」
少し上がり気味の目尻を更に上げて、光が返事をしてくる。
翔は胸元を押されるような息苦しさを感じながら「ごめん」と呟き、続けた。
「……じゃあ、行って来るから」
「行ってらっしゃい。拓人君もね」
「あぁ。んじゃ」
拓人は玄関に向いていたが、光を振り返る。
光は怪訝そうに、拓人を見返した。
拓人は、どう言ったものかと言葉を選んで、声を出した。
「光さん、あのさ……」
「何?」
だが、寝不足の所為か鋭い眼光で睨まれた拓人は、言葉を留めた。
かぶりを振って、
「いや。何でもない。身体に気を付けて」
玄関を出るふたりの後姿を見届けると、光はひと言「ありがと」と呟いて伸びをした。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「今日中にあとふたりくらいは話しができると良いんだけど」
欠伸をしながら、自室のある別棟へと足を向けた。