第五十三話『憑依』―1
「どうしたんだよ。お前まで慌てて」
とは、凌が隣を走る天后へ向けた言葉だ。
「あたしが見たのはほんの少しだけど……洋介ったら本当に性格が悪いのね」
これは、慌てているというより侮蔑に近い表情。作り物のような――否、実際に天后が“作った”顔の目元が、歪んでいる。
この水神がここまで嫌悪を露わにするのも珍しい。
答えになっていない天后の言葉に、凌の眉間にも皺が出来た。
階段を登った先――二階へ到達した時、その皺は更に増える事となる。
血液やら体液やらにまみれた場所。
そこには、手前から、天空を肩に乗せた拓人、横たわって動かないユウヤ、渋い顔の祝の姿がある。
その先では、イツキがマヒルを抱きかかえてキスをしていた。
「え……、どーいう状況……?」
情報処理が追い付かず、凌の思考はフリーズした。
◇◆◇◆
それは、凌が地下牢へ足を踏み入れたのと同時刻だった。
イツキとマヒルは手前の階段、凌は奥にある階段を使ったので出会う事はなかった。
それに加え、イツキの能力で高速移動をしたために、彼らは数秒も掛らず二階へとやって来る事が可能だったのだ。
肩車をされた姉を視界に捉えたユウヤは、声をひっくり返して叫んだ。
「姉ちゃん!?」
何でここに居るんだよ!? と、ここへきて初めて見せる焦り。
ボスであるマヒルは、表へは出てこない手筈だったのだろう。小さい子どもも居るので、当然といえば当然だ。だが、団長は現れた。
拓人は、突然横へ現れた二人に向かって形式上の挨拶をする。
「初めまして。《自化会》の成山です。ガトウマヒルさんと、その夫のイツキさんで間違いないですか?」
真っ直ぐ目を合わせて問われたので、イツキも反射的に「え、あ、うん」と答えた。かなりの至近距離。これなら、考えている事も聞き取りやすい。
イツキは、目の前に居るつり目の青年に意識を集中させた。
思考を読み取ろうと試みる。
油断させておいて、どういった行動に出るつもりなのか。そんな事を危惧していたのだが――。
“あー、どうすっか。殺すのは一瞬で出来っけど、この二人、子どもが居るんだよなー。殺すのは気が引けるんだよなー……”
聞こえてきたのは、イツキの予想に反して間の抜けた独り言だった。
何やら、自分たちを生かそうとしているらしい。
マヒルには悪いが、ユウヤを始末して自分たちは生き残る事が出来るかもしれない。
気持ちが和やかになったのも束の間。
イツキは、悪寒が全身を包み込むような感覚に襲われた。
他の者には視えないもの――人のオーラと言われるものが、拓人はとても複雑な色と形をしている。
今は穏やかに彼の体に沿って漂っているが、感じ取る事の出来る質量が今まで会ってきた誰よりも重い。
ユウヤの奥に居る黒髪の青年も相当なものだが、その比ではない。
本能が赤信号を出している事は明白だった。
「イツキさん?」
不思議そうに、明るめの瞳が見ている。
その眼が上を向いたかと思うと――次の瞬間、大きく見開かれた。
「洋介……!」
彼の視線を追おうとするも、肩にはマヒルが乗っている。
しかし、マヒルの様子が妙だ。小刻みに震え出した。
マヒルが笑っているのだと気付いたのは、笑い声を聞いてからだった。
「ふふふふふ……はははっ。久し振りだね、拓人」
声はマヒルなのに、別人なのは誰の目にも明白だ。
先程、拓人が『洋介』と言っていたが、イツキには何が起きたのか理解が追い付かない。
イツキが困惑していると、マヒルは踵に力を入れてイツキの胸を蹴り、後ろへ回転しながら着地した。
「体は小さいけどそこそこ動けるね。気に入ったよ」
背に虎の刺繍が施されているスカジャンの裾をパタパタと引っ張りながら、マヒルはにっかりと笑った。
イツキの後ろで、VRゲームの操作を確認するように小さな体を動かしている。
そんなマヒルが、拓人に向かって細い肩を竦めて見せた。
「君が居るから動きにくいったらありゃしない。周りは十二天将だらけだしさ。有り得ないよね?」
朱雀、天后、天空に加え、外には騰蛇と六合が居る。
十二天将が五柱。
洋介の言う通り、とつもなく稀な状況にある。
袋のネズミともいえる現状だが、マヒルに憑りついている洋介に絶望的な雰囲気はない。
それどころか、洋介の口振りには余裕すら感じられる。
「何言ってんだよ、ねーちゃん……」
イツキよりも戸惑っているのは、ユウヤだった。
十四年間共に過ごした姉が豹変したのだから、混乱するのは当然だろう。
今まで人も無げな態度をとっていたユウヤが、呆然と立ち尽くしている。
(東陽は霊が視えるのに、ユウヤは視えねーのか)
拓人は、ユウヤの片割れを思い出す。
過去に、会長の怪しい実験に参加していたと聞いている事も同時に思い出した。
その時に視えるようになったのかもしれない。
そんな仮説を立てながら、拓人はマヒルの体を乗っ取っている洋介に視線を戻した。




