第五十二話『正義と矛盾』―1
下から祝の悲鳴が聞こえたが、光は今まさに自分が根限りの力で叫びたい気持ちでいっぱいだった。
何かに囲まれている。
何も視えないが、目の前に居る東陽以外に複数、いや、もっと多いかもしれない。とにかく不気味な気配を、光は肌で感じ取っていた。
東陽はというと、にこにこと笑ったまま、口元にあるホクロ付近へ手を添えた。
「思った通り、光さんは強い女性ですね。声のひとつも上げないなんて」
ぐい、と後ろから何かに羽交い絞めにされ、呻き声が漏れそうになるのを必死で止める。光は出来る限り平静を装った。息を深く吸い、周りへは目もくれず、東陽をにらみ付ける。
「アタシに危害を加える事は、オススメしないわ」
喉元に何か冷たく硬いものを突き付けられる感触があった。
それは、刃物のようであり、鋭い爪のようでもある。
「そうですね。貴女を傷付けたら、翔さんがどれだけ怒るか……」
「違うわ」
凛とした声が、東陽の言葉を遮った。
「貴方は勘違いをしているの。この場で一番怖いのは、キメラでも東陽君でもなく、多分、アタシよ。……ごめんなさい」
ぼとり。
刃物のように鋭い爪が伸びている手が、床に落ちた。
「姿が視えないから、体の全てを選んで飛ばすことが出来ないの」
じんわりと床に広がっていく血を見つめながら、申し訳なさそうに、静かな声で光が言う。
後ろから体を押さえていた“何か”が、すっと離れた。
視えない何かが居るであろう背後に向かって、光は微笑む。
「あなたは利口だわ。アタシには近付かない方がいい」
東陽はすべらかな肌に汗を滲ませて、何をしたんですか? と光に問う。
「東陽君なら分かる筈よ」
と言われるも、東陽は眉根を寄せるのみ。
「アタシは、日本で言う“黄泉”とこちらの世界……つまり“現世”を繋いで、死者を喚ぶ力を持っている。だから、現世から黄泉へ飛ばすことも出来るの。無機物もね。魂だけの状態と違って肉体を飛ばすのはとても難しいから、こうなってしまうの……」
と、床に転がっている立派な爪の手を、視線のみで示す。
「どちらにせよ、黄泉の世界へ行く過程で肉体は消滅するのだけれど」
光が淡々と語るにつれ、周りを囲っていた気配が遠退いていく。そこで、窓をノックする影があった。
ここは三階。外に居るのは合成生物か――
「翔!」
光の顔が、パアッと明るくなった。
窓の外には、真っ赤な翼をバッサバッサとはためかせ、翔が浮いている。
光は周りを気にすることなくカギと窓を開けた。
サッシに足を掛けた翔に、光が抱きつく。翔の体がグラッと後ろへ傾いたが、光がそのまま職員室内へ引き入れた。そして、改めて抱きつく。
「翔、翔っごめんなさい。アタシ、あんな事で怒るなんてどうかしていたわ」
一昨日の夕方に喧嘩した――というか、光が一方的に嫉妬して怒り、走り去った事だと気付くのに三秒ほど要した。
「え? いいよ。嫉妬してる光は可愛いもん。俺は気にしてないよ。だから泣かないでよ」
翔は、光のアクアマリンのような瞳から零れる涙を指で掬うとそれを舐め、
「やっぱり、魔女の涙もしょっぱいね」
と笑った。
光は目を大きく見開いて、思い出したの? と、夢でもみているのではないかと疑うように呟いた。
「うん。分かってる。怖かったから泣いてるんでしょ? 俺の可愛い魔女さん、また会えてうれしいよ。十年以上忘れてて、ごめん」
寒太の姿で近くに居たことは、今は黙っておく。
緊張の糸が緩み、光は声を上げて泣き出した。
「ああああっ怖かった! 一人消しちゃった……アタシ、もう少しでここに居る全員消しちゃうところだったの!」
魔女は、泣きながらとんでもない事を言う。
「光は優しいね。大丈夫。残りは全員俺が消すから。光はもう誰も消さなくていいよ」
神の子は、笑顔でとんでもない事を言う。
「か、翔だって消さなくていいのよ。アタシは無事だもの」
光は暗に“殺すな”と言った。それに対して、翔は微笑を返す。
「光は昔から変わらないね。ちょっとだけ目を閉じてようか」
柔らかい手が光の目を覆う。指の僅かな隙間から青い光りが、光の目に飛び込んできた。高かったり低かったりする悲鳴も、数秒で消えた。雑食生物特有の焦げた臭いが鼻腔を刺激したのも、すぐにおさまった。
マシュマロのように柔らかい手が離れた時――職員室の中で立っていたのは、翔と光と、東陽のみとなっていた。
「ちょっと時間は掛ったけど、ちゃんと力が制御出来てる。潤のお陰だね」
翔は人差し指を光の前へ出すと、指先に火を点して見せた。透明度の高い海のような、青い火。
「光の眼の色と同じ。綺麗でしょ」
これも潤に教えてもらったんだ。そう話す翔は、どこか得意げだった。
「それでね、光。俺、光に言いたい事があってね……」
ごそごそと、背負っていた筒から何かを取り出した。丸められた紙。それを広げ、光に見せる。
「それって……」
二年ほど前、翔が寝ている間に勝手に成立させた婚約に関する誓約書だった。
「これをこうして……」
翔が言ったと同時に、青い炎が誓約書を呑み込み――紙だったものは、灰も残さず消滅した。
状況が理解出来ず、光は瞬きもせずに固まってしまっている。一度引っ込んでいた涙が、再び決壊しそうなほど瞼の奥に溜まってきた。
翔はまた、ごそごそと筒の中を漁っている。次に取り出したのは、透明なフィルムに巻かれた、真っ赤な一輪の薔薇。
「俺の眼と同じ色。綺麗でしょ」
言いながら、薔薇を光へ渡す。
そして、筒からもうひとつ……、今度は丸められた紙を一枚取り出した。それを広げ、光の目の前に掲げて見せる。
「新しい誓約書。俺の名前が入ってる。あとは光の名前だけ」
それは、先程燃やされた誓約書と同じ書式のものだった。
「こういうのは男の方からするものだって、俺、知ってるんだ。だから、やり直し」
薔薇を持って唖然としている光へ向けて、紙を渡す。
「高校卒業したら結婚しよ」
光は薔薇と誓約書を抱き、涙を決壊させて言った。
「それ、もう、こんな、契約書じみたものなんて要らないじゃない! アタシが嫌だなんて言うはずないんだから!」
「それ、答えになってないよ?」
指摘され、光が涙を拭いもせず、被せ気味に続きを叫ぶ。
「はい! します、結婚、しますぅぅぅう嬉しいどうしよう、アタシ、表情筋が緩みっぱなしなんだけどっ!」
泣き叫ぶ光の顔は、彼女が言う通り口元がだらしない。
「え? 光はずっとそうやって俺の隣で笑ってればいいよ」
「何それ、アタシを殺す気!? 嬉しすぎて死ぬわ!」
「いや、死んじゃだめだよ。手が握れなくなる」
「あのぉー……」
ハートが乱舞している空気の中、東陽が申し訳なさそうに手を上げた。




