第五十一話『トラウマ』―3
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「夜逃げですか?」
まだ昼間と言える時間に、そんな質問を投げ掛けた。
大きなリュックを背負ってコソコソしていれば、そんな風にも見えてしまう。
芹沢凌は人の形になった天后を後ろに控えさせ、理科室から出ようとしていた人物を見据えた。
最後に見た時は乱れていた髪だったが、今は初めて会った時と同じようにオールバックで整えられている。
エメラルドのような色をした瞳が一度凌を映して、瞬きで閉ざされた。
「やぁ、凌君。こんな所にまで僕の事を追って来たのかい? 僕って隅に置けないなぁ」
ヘラヘラとそんな事を言える鋼のメンタルを見せる。
只のバカなのか、おどけて見せる裏では何か算段があるのか……。相変わらず読めない男だ。と凌は思う。
(この人、《自化会》の会長と似た者同士なんじゃね?)
怪しい所が無いか観察する。首輪はしていない。服装は《自化会》から逃げた時のまま。
リュックの中に何が入っているのかは気になるところだが、見えるところにはこれといって興味を誘うものはない。
ふと実験用の机を見やると、黒いプラスチックのようなものが解体した状態で放置されていた。首輪よりひと回り小さい。
合成生物に装着けられていたものと同系統のものだとすると、GPSや起爆剤などが入っていたのだろう。
本格的に逃亡を謀っていたようだ。
「間に合って良かった」
思わず口からこぼれ出た。
「凌、ここにキメラは居ないみたいだけど、さっさとやっちゃった方が良いわよ」
背後から聞こえる水神の声は、冷ややかなものだ。よく澄んだ海のように透明感のある青かかった髪を弄んでいる。
洋介は自分の式神――シロクマのシロ――を出しはしない。
「神様っていうのは、どいつもこいつも自分勝手だよね」
誰の事を頭に浮かべているのか、洋介がそんな事を呟いた。
それに反応したのは天后だ。
彼女は一瞬姿を消し、洋介のすぐ隣へ現れた。
「あたしは水神サマだけど、何もこの世の全ての水を司ってるわけじゃないの。西洋――欧州で言う、精霊のようなものよ」
ま、偉い事に変わりはないけどねー。と、洋介の首へ腕を回す。
「美女に接近されるのは嬉しいけど、出来れば人間が良いな」
「あら残念」
と言いながらも、離れない。
「ねーえ、凌。このままこの子の首、かっ切ってやりましょうか?」
ここへ来て、初めて洋介の顔が強張った。
「オレのターゲットを勝手に殺すな」
凌に一蹴され、はぁい、と残念そうに天后の細い手が離れる。
「キリル・スミルノフに渡したいものがあるんだ」
凌はジャケットの内ポケットから、洋型2号の茶封筒を取り出した。それを、洋介が居る近くの机へ投げる。
ビックリ箱ならぬビックリ封筒じゃないよね? と確認する洋介に凌は、只の封筒だ、と真面目に返答する。
中身は三枚の写真だった。
銀髪に緑の瞳を持つ男性と、黒髪に深い茶色の瞳を持つ女性が一枚ずつ。二人ともスーツ姿で、証明写真のようだ。
もう一枚は、やっと立ち始めた頃かという乳幼児を中心に、両隣でしゃがんで笑っている二人。こちらは私服姿だ。
乳幼児は二人の子どもだろう。父親の遺伝子を濃く受け継いだ髪と瞳の色をしており、目元は母親に似ている。
背後には背の高い針葉樹と雪だるま、そして煙突のある家が写っている。
「今回の事を社長に報告したら、アンタに渡してくれって頼まれたんだ。ウチの社長、社員の遺留品を捨てらんない人でな」
「……そうかい……」
洋介は写真を封筒へ戻すと、リュックの外ポケットへ滑り込ませた。
「まぁいいや。ロシアに居る祖父母に、良いお土産が出来たって事にしとくよ」
故郷へ帰るつもりらしい。
追い詰められているというのに、洋介は笑顔のまま続ける。
「僕も、君の秘密を知ってるんだよ。芹沢凌君」
その言葉に、凌と天后は同じようにキョトンとして洋介を見た。その表情を、すぐに怪訝なものへ変える。
洋介は言葉を続けた。
「実は、君に会うのは今回の件が初めてじゃないんだ」




