第四十二話『あの人は今』―3
やる事はやったし、もうここに居る意味もないか……。とは思ったが、何か見落としが無いか気になり、凌は本部の三階まで上がって来た。
会長室兼応接室のある階だ。階段を挟んだ反対側には、翔と寿途以外の《SS級》会員たちの部屋もある。洋介の実験室やら、《SS級》会員専用の用具室も備わっている。
会長室に近付くにつれ、薬品のにおいが漂ってきた。
(それでも、昼よりは薄まったかな)
滝沢の肉を溶かした直後のにおいを嗅いだ凌にとっては、この程度のにおいは気にする程でもない。
洋介が何か痕跡を残していないか確かめる為に会長室の扉を開けた瞬間、何が起きたのか理解が追い付かない速さで口を押さえられ、ものすごい力で廊下の壁へ押し付けられた。
衝撃で呻き声が漏れかけたが、くぐもった声が喉の奥で鳴るに留まった。
顎の下に金属の冷たさを感じつつ、眼球だけ動かして状況を探る。目の前には、見慣れた……、とぼけた顔をした、手足と胴体が異様に長いピンクのウサギ。《P×P》のマスコットキャラクターが居た。
群青色にも見える黒髪の隙間から、同じ色の瞳が覗く。かと思うと、口を押えていた手と、顎の下にあった何かが離れた。
「凌君でしたか。驚かせてしまって、すみません」
困り顔で謝っているのは、翔の義兄であり、天馬家の長男……。
「や、すなり……さん?」
右手に包丁を持っている康成に、凌は疑問符を飛ばしまくっている。
「銀髪に見えたもので。洋介君だったら尋問対象ですからね」
「え、いや……あの……何で康成さんがここに……?」
未だ状況が飲み込めない凌が、壁に背中を預けたまま目を瞬かせた。
「僕、《自化会》の経理を担当している、第二秘書なんです。滝沢さんに何かあった時には、ここを任されているんですよ」
包丁を腰に巻いてある革製のカバーへ収め、康成は嘆息した。
「滝沢さんからは『早く代わってくれ』って言われ続けているんですけど。僕としては、まだ翔様のお傍に居たいと言いますか……」
ほら、あの人危なっかしいですから。と笑う康成の表情は、兄というより母のそれにも見える。
康成はどこか曇った顔で笑った。
「まぁ、そんな事も言っていられない状況になったので出てきましたけど。凌君も気付いているでしょうけど、《自化会》は組織として穴だらけなんです。この一件で露見しましたね。内職の僕が出てくるなんて……と、これ以上は愚痴になってしまいますね」
振り返り、凌を会長室へ招き入れる。その背中を見ながら、
(ああ……そういえばこの人、《P・Co》との均衡を保つ為に天馬家に引き取られたんだっけ……)
苦労したんだろうな、とぼんやり思いながら、凌は会長室を見渡した。
床に散っていた血痕は綺麗に掃除され、書類やファイルが数点机に乗っている。所々、床やテーブルなどに傷はあるもののよく片付いている。これといって不審な点はない。
「康成さん。洋介さんの他に、まだ内通者が居るかもしれません。オレは一度、天馬邸へ戻ります。くれぐれもお気をつけて」
「そうですね。凌君もお気をつけて」
柔和は笑顔で手を振る康成と別れ、《自化会》本部から天馬家へ向けて出発した。
会長室に残った康成は、ファイリングされている書類や臣弥の研究データなどを眺めながら溜め息を吐いた。
「研究に費用が多すぎますね。会長には再三再四言っているんですが、なかなか聞き入れてもらえないんですよ」
独り言にしては大きな声で愚痴を溢す。
今度は、室外へ聞こえるように声を張った。
「お待ちしてました。後藤東陽君……いえ、後藤朝陽君ですよね? どうぞ、お入りください」




