第四十一話『さいかい』―4
目を閉じた瞬間、ふとよく知った気配が肌を伝った。光は右手を上げて、
「ごめんなさい。お手洗いに行ってくるわ」
と気付いた時には口を突いて言葉が出ていた。しかし、今の自分には充分な自由が無い事を思い出す。
「心配ならアタシに発信器や盗聴器をつけてもらってもいいけれど……。ミコトさん、ついて来てもらっても良いかしら」
突然名指しされ、マヒルのほっぺとコーセーのほっぺを交互に摘まんで遊んでいたミコトが、あからさまに嫌な顔をする。
だが、ユウヤに頼まれると渋々と項垂れながら笑顔の輪から離れ、光の方へ近付いて来た。
「あたし、アンタの事嫌いなの。知ってるでしょ?」
「あら、アタシはミコトさんの事、結構好きよ」
光がくすりと笑うと、ミコトはジト目で「あたしの方が年上なんだけど」と大きな口をアヒルのように尖らせた。
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい。じゃあミコトさん、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げれば、ミコトは不機嫌そうではあるものの嫌悪感を和らげて「行くわよ」と光を誘導した。
ここは三階。高い所が好きなユウヤは、何かやるとなれば三階に集まりたがる。
光は廊下を歩きながら、ガラス越しに見える街の明かりに少しばかり目を奪われた。歩みを止めた光を怪訝に思ったミコトも足を止め、振り返る。行くわよ、と声を掛けたが、光の視線の先にあるものが宝石のように輝く街だと気付き同じように外を見た。
「キレーでしょ! もう見慣れちゃったけど、あたしもここへ来た時にはちょっと感動したものだわ」
「……ミコトさんは、《天神と虎》の設立時からここに居るんですか?」
「そーよ。元はもっと小さな廃倉庫の中で活動してて……。その頃はユウ君も人数が増えるのを嫌がってたし。メンバーはもっと少なかったわ。ここへ移って来たのは、コーセーが生まれるちょっと前。街に近い所へ移った途端に湧くように人数が増えて、今じゃ三百人くらい? もう、あたしにも正確な人数が分からないのよね。ホームレスや浮浪者みたいな奴も多いし」
ミコトは、昔を懐かしむように語る。それと同時に、人数が増えすぎた事への不満も滲み出ていた。
「この組織、下の人たちは知らないけれど、さっき集まっていた人たちは家族みたいですよね」
光は、初めに抱いた印象を伝える。ただし、よそ者には厳しい。と思ったが、それは胸の内に留めておいた。
おそらく、ミコトは血の繋がりこそないものの“家族”のひとりだろう。
ミコトは光の言葉をどう受け取ったのか、街の明かりを眺めながらポツリと溢す。
「…………そうね…………。だといいわね。……って、アンタ、トイレでしょ? さっさと行きなさいよ!」
今日会ったばかりの人間に少しばかり話しすぎたかと、ミコトは光を言葉で突っぱねた。
赤くなっているミコトの耳が視界に入ったが、光は胸中で微笑むに留める。
そんな二人の目の前に、黒い塊が現れた。
黒い着物の襟を右前にしている、黒髪の少年だか青年だかという人物。ふたつある瞳は、赤ワインのような色をしている。
何の前触れもなく現れた人物にミコトが瞠目して悲鳴を上げかけたが、光の手によって大声は抑え込められた。
「深叉冴さん。ここは敵地の中よ。もっと慎重に動いてくれないと」
光は、将来義父となるであろう人物を咎める。そして、自分の手のひらの向こうで喚いているミコトに向かい、眉を下げた。
「ミコトさん、ごめんなさい。この人は深叉冴さん。アタシの婚約者のお父さんよ。害は無いから安心して」
登場の衝撃もあり、安心しろという方が無理だろうが……あまりにも当然のように光が紹介をするものだから、ミコトは喚くのを止め、頷く代わりに光の指を思いきり噛んだ。
「いたっ!」
と突然の事に手を引っ込めた内に、ミコトは皆が居る方へ走り去っていく。
「……まずいわね……」
歯型のついた指を摩りながら、光は嘆息する。
目の前には、やっちゃった! と狼狽えている深叉冴の姿。その肩に手を置き、光は深叉冴の目を見て伝える。
「深叉冴さん、よく聞いて。東陽君はここのボスの弟。双子の弟が要注意人物。あと、《P・Co》の尚巳さんは黒猫になってるけど生きてる。これを、拓人君か潤さんに伝えて。それから、アタシが喚ぶまで翔の所へ戻ってて」
早口で言い終えると、深叉冴の肩を押した。深叉冴が慌てた様子で何か言い掛けたが、強制的に消したので言葉は聞き取れなかった。
光の耳に、複数の足音が届いた。明らかに走っている音と歩いている音。バラつきはあるものの、徐々に近付いてくる。
光は言い訳を考えるでもなく、振り向いた。先頭を走っているミコトに手を引かれ、イツキも走って向かって来ている。その後ろに、のんびり歩いているユウヤと、コーセーを抱いて早歩きで追いかけるマヒルの姿がある。
「お化けみたいに急に出てくるんだもん! 驚くわよ!」
ミコトは派手な爪で光の居る方を指差す。イツキは「そうだねぇ」と同意しながら困った表情を向けている。
「っていうか、居ないし!」
ミコトは光の周囲を見回した。
「深叉冴さんなら、帰ってもらいました」
光の言葉に、ミコトは「どうやって!? どうせその辺に隠れてるんでしょ!」と隣接している教室の扉を開けたり窓の外を覗いたりして深叉冴を探す。が、当然居るはずがない。
「突然現れる事が出来るなら、消える事も出来ます。というか、彼はアタシの使い魔ですもの。彼はとっくに死んでるヒト。お化けっていうのも、当たらずとも遠からず……って感じかしら」
光は手短に、この場に居ない人物について説明を済ませた。すると、丁度到着したユウヤが不敵な笑みのまま、警戒心も感じられる声で訊ねる。
「っつー事は、光ねーちゃんが呼んだらいつでもここへ来れるって事か?」
「ユウヤ君は物分かりが早いわね。ええ、そうよ。でも、アタシは今、ゲストであると同時に人質っていうポジションじゃないかしら? となると、使い魔は邪魔な存在。要らない疑いを抱かれるのはアタシとしても本意じゃないわ。だから、帰ってもらったの」
なるほどな、とユウヤは顎に手を当てる。
「でも、使い魔なら、光ねーちゃんがここに呼んだから来たんじゃねーのか?」
「彼……深叉冴さんは、さっきミコトさんにも紹介したんだけど、アタシの婚約者のお父さんよ。事情は複雑だけど、出来る限りの自由を条件に、彼と契約を結んでるの」
ユウヤは、ふうん、と呟いた。使い魔だなどと、にわかには信じられない話題であるにも関わらず、納得した様子を見せる。それに驚いているのはミコトだ。
ユウヤ自身が合成生物という常識的にデタラメな存在を造り出す人物だという事もあり、案外すんなり受け入れられたのかもしれない。
「幽霊や悪魔や妖精ってのも、居るのは知ってたしな。何たって、光ねーちゃんは魔女だ。使い魔を従えてるくらいがカッケーよな!」
何故かテンションを上げているユウヤは、興奮したまま光に疑問をぶつける。
「悪魔と契約するには処女がどうとか言うけど、光ねーちゃん、婚約者の父ちゃんとヤッたのか!?」
「え? 何を?」
光はユウヤの言葉が理解出来ず、きょとんとしている。
「何か、ほら! エロい事!」
よく分からない期待の眼差しを至近距離で受け、ここへ来て初めて、光の顔面から表情が消えた。




