第四十話『鳥の子』―5
ゴポ――。
暗い。
こぽ、ごほ、こぷ……ごぽぽ。水中で酸素の動く音が聞こえる。耳閉塞感の中で聞こえる機械のモーター音と、人の声。
それから……何か……、温かい何かの中に浮いてる感じ――気持ちいい。
(水の中……?)
目の力を抜くと、視界が開けた。
眩しい金色が、目の前にある。ふわふわの髪も、大きなつり目も、金色。ピカピカ光ってるみたい。母さんにそっくり。
「目ぇ開いた! 赤いぞ! 深叉冴も見てみろよ! ごふぅッ!」
金色が、真っ赤に変わった。それは勢いよく飛んできて、目の前に、べちゃっと貼り付いた。そこから、だらだらと下に向かって垂れてる。
「大丈夫か、つぐみ!」
あ、父さんの声だ。
父さんは、椅子を持ってきて、置いた。それから、俺の目の前にあった赤を布で拭き取ってくれた。やっぱり、生きてた頃の父さんだ。茶色い髪の毛に、大きな丸い目に、猫みたいな口。
って事は、やっぱり金色は母さんかな。口の周りが赤い。血……吐いたのかな。そういえば確か母さん、体、弱かったな……。いつも、血を吐いてた。
「つぐみさん、嬉しい気持ちは分かりますけど、お体に障りますから。安静にしていてくださいねぇ?」
黒い。布……服……? スーツかな……。声は、嵐山かも。視線を動かしてみても、俺からは白のカッターシャツまでしか見えない。
って事は、母さんってかなり身長が小さかったんだ……。
そんな事をぼんやりと考えながら浮いてると、嵐山っぽい人が、機械を操作し始めた。俺の居る場所も、音が変わる。モーター音みたいな、大きな音が響いて、水がどんどん下がっていって、耳がよく聞こえるようになって、目の前がはっきり見えるようになって、明るくなって、今まで浮いてた体が重く——
「……夢……かな……」
天井を見上げながら、翔はぽつりと呟いた。
彼は今、水ではなく、日光を吸って柔らかくなった布団の中に居る。
珍しく……否、初めて、夢の内容を覚えている。ひどく懐かしい気持ちになると同時に、ある疑問が翔の中で浮上した。
「俺、何か、大切な事を忘れてる気がする……」
上半身を起こすと、分厚い羽毛布団に腕が沈んだ。
忘れている事など、数多ある。自分は忘れっぽい。昔から。物心ついた時から。
それじゃあ——
「その前は……? 俺は、いつから“こう”なった……?」
母の顔は覚えている。もう、ぼんやりとした記憶だが、夢で見たあの顔だ。元気に走ったかと思うと、吐血していた。
父はいつも、自分を抱く度に火傷をしていた。器用に顔は死守していた。手は特に酷くてボロボロだった。
それから、暗闇と薔薇の花と、金色の――――そこから先は思い出せない。
思考を、母の最期へ戻す。
「……そう……俺、母さんが死んで、すごく、えっと……“悲しい”とか“さみしい”ってなって、……それで……それから…………」
そこで、記憶がブツンと切れている。思い出せない。
「寒い日、だった……冬……そうだ、母さんの命日は……」
ベッドから下り、部屋にあるカレンダーへ向かって、吸い寄せられるように歩く。
康成が毎年用意してくれるカレンダーには、父である深叉冴と、母であるつぐみの命日が赤色で書き記されている。カレンダーを一枚捲る。十一月には印は無く、もう一枚下を見る。十二月。
“24”に、印があった。クリスマス・イヴ。
翔は、その日、父が言った言葉を思い出した。
「つぐみは、賑やかなのが……好き、だから、いい日に逝けて……よかった……」
当時、自分は五歳だったと聞いている。だが、覚えている。確かに、父はそう言った。
それから、自分は母の頬を触ったのだ。それはひどく冷たくて……。大好きだった金色の目は、もう見えなくて。もう、笑ってくれなくて…………。そう実感したと同時に、それまで感じたことのないものが、濁流のように押し寄せてきて——そこからの記憶が、ない。
「なんで? そこまで覚えてて、なんで……その、あとの事を忘れてるの?」
記憶は押し出し式だ——と聞いたことがある。記憶を収める箪笥があって、古い記憶から順に整理され、なくなり、新しい記憶を収められるように隙間を作る。稀に、角の方にある埃みたいに、残る記憶もある、とも聞いた。
その話を聞いたとき、翔は“じゃあ俺の記憶の箪笥は小さいんだな”と思った。
康成が来た日、倫が来た日、長かった康成の髪の毛を自分が切り落とした事や、倫の右目に傷を負わせた事。少しぼやけているが、確かに覚えている。これらは全て、母親が死ぬ前の事だ。
ある期間は埃すら残っていない。だが、かなり古い記憶でもはっきり残っている場面がある。
考えもしなかった。
翔は鳥だから忘れっぽいんだろうな、と複数人から言われてきた。自分も、そうだろうな、と思ってきた。それを疑わなかった。
しかし、自分の一番身近に居る“鳥”は、物事をよく覚えている。小さな猛禽と呼ばれ、10年以上生きている、百舌鳥の——
「…………寒太…………!」
翔は、部屋から飛び出した。




