第三十八話『銀の人』―1
洋介のシロクマ……シロは、真っ白でコロコロ丸くて小さくて――まるで、ぬいぐるみのような式神だ。
三浦洋介、否、キリル・スミルノフは、祖父母に育てられた。両親は仕事で殆ど家に居らず、特殊な仕事をしていることから田舎に住み、近所に年の近い子どもも居なかった。そんな洋介の遊び相手が、シロだった。
ふわふわの、シロクマのぬいぐるみ。当時のシロは、“動くぬいぐるみ”だった。
シャーマニズムに精通していたトゥヴァ共和国出身の祖母が、シロクマの霊をぬいぐるみに降霊し、キリルに与えた。それが、当時のシロだ。“両親の形見”などではないし、当時から洋介の方が大きかった。
両親が殺されたと聞き、日本へ渡る決意をしたキリルに、祖母はシロを零体として譲渡した。真っ白でコロコロ丸くて小さくて、臆病――それが、現在のシロである。
正直、もっと頼りがいのあるやつだったら、と思う事もままあるが、長年共に居る存在だ。洋介が、唯一信頼を寄せている存在といえるだろう。
「何で、こんなに計画が狂うかな。僕ってほんと、運がない……」
はぁ、と整髪剤で固めていない銀色の前髪を掻き上げる。
この組織に身を置いて、もう十年ほどになる。この組織を内側から壊していく計画を立て始めてからでも、すでに五年以上経つ。頭が悪い方ではない、と自負しているし、弱くもない、とも思っている。
俯けていた顔を上げると、黒い人物が立っていた。ワイシャツと肌以外が黒い。
《自化会》会長、嵐山臣弥。寝癖というわけではなさそうだが、毛束が数本、頭からみょん、と飛び出している。
「おや、洋介君。こんなところで、どうしたんですかぁ?」
相変わらず間延びした話し方。相変わらず、警戒心の感じられない風貌。スーツジャケットのポケットフラップが、中途半端に飛び出している。
今、このタイミングで出会ったのは、吉か凶か。
周りには、誰も居ない。
「会長を探していたんです。偶然出会えて、ラッキーでした」
にこりと笑えば、にこりと笑顔を返される。いつものやり取り。
こくん、と臣弥の顔が傾く。笑顔のまま。
「ところで洋介君、イメチェンですか? 髪を下ろしていてもカッコイイですねぇ」
「あ、ええ……、ありがとうございます」
ちらりと後方を気にする洋介に、臣弥は更に首を傾ける。
「どうかしましたかぁ?」
廊下は直線。凌が追って来るならば、必ず出会う。この場は一旦、一刻も早く立ち去るべきだ。
「すみません、会長。養護施設棟の修復もまだですし、僕はそっちへ――」
「あぁー、そうですねぇ。でも、そんなに焦らなくても良いじゃないですかぁ。私に会いたかったんじゃないですか? それとも、私とのお話しは楽しくないですかねぇ?」
変わらない笑顔。いつもと、何も変わらない。だが、洋介は全身の血管が凍るような寒気を感じた。
バレている。と、直感的に悟った。
そして反射的に、滝沢へ浴びせた液体と同じものが入っている小瓶を取り出した。蓋を外し、臣弥へ向かって腕を振る。
ぱしゃっ。という軽い水の音と、刺激臭が洋介の元へ届いた。
(やった……?)
飛沫の散った床が変色し、僅かに溶ける。
だが、目の前にあるのは綺麗なままの黒いスーツ。その上にある、変わらぬ笑顔。
「――ッ!?」
総毛立つ、とはこの事だろう。
言い様のない恐怖が、洋介の背を一気に撫でた。相手は、ただ笑って突っ立っているだけだというのに。
「あーあ、廊下が溶けてしまいましたねぇ」
まるで、アイスが溶けたかのように、目の前の男は言う。
臣弥が視線を床へ向けている隙に、洋介は飛び出していた。廊下の外側へ。窓ガラスを突き破って。
今まで居たのは三階。一般的に言われる死亡率は、六割程度だろうか。どちらかというとインドアな洋介だが、一応は体も鍛えてある。上着に仕込んでいる瓶が割れないように庇いながら着地すると、ガラス片によって傷ついた体を気にする事なく走り出した。
それを上から見ていた臣弥は洋介から視線を外し、
「うーん……。また出費が嵩みますねぇ……」
と、風通しのよくなった窓を眺めた。
「嵐山さん!」
後ろから声を掛けられ、振り向いた。帯刀した凌が、銀髪美女を貼り付けた状態で走ってくる。
「おや。凌君じゃないですか。どうしたんですかぁ?」
「どうした、って……洋介さんと、会いましたよね?」
床の状態を確認しながら、凌は怪訝な顔を見せる。
「ええ。危うく、溶かされるところでした」
しれっと笑顔のまま言われ、臣弥が無傷な事を確認し、彼が何を身につけているのか、確信した。
「秀貴さんのお札……ですか?」
「そうです。ヒデのお札は凄いんですよぉ」
ふふ、と笑う臣弥。凌は胸中で、知っています、と呟く。
(滝沢さん、知らなかったんだな……)
滝沢に少々同情しつつ、ガラスの割れた窓の外を見た。
「逃げたんですか、洋介さん」
「ええ。でも、大丈夫ですよ。行先は見当がついています」
臣弥はそう言うと、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出し、電話を始めた。
「あ、お疲れ様です。洋介君がそっちへ行ったら、殺してしまっていいですよ。…………。ええ。ふふ。私は大丈夫です。…………。ええ。はい。彼はなかなかやってくれますよ。くれぐれもお気を付けて」
スマホをしまう臣弥に、凌は変わらず怪訝な表情のまま、訊いた。
「臣弥さんは、洋介さんが裏切り者だという事を、知っていたんですか?」
臣弥は顎に手を添え、そうですねぇ、と洋介の走り去った方角を見やった。
「彼を騙していたのは私なので、私が“裏切り者”かもしれないですね」
「…………? それって、どういう……」
「まぁ、私もそれなりに悪い人、という事ですかねぇ。彼の作る薬はとても価値があったので、かなり泳がせていたのも事実ですし」
化学仲間が減るのは少し寂しいです、と臣弥は肩を竦めた。
理解が追い付いていない凌へ、臣弥はにこりと笑う。
「この度は駆けつけていただき、ありがとうございます。ものは相談なのですが……、凌君に手伝っていただきたい事があるんです」
「何でしょう」
「洋介君の部屋にある劇薬たちの凍結です。あと、そうですねぇ……滝沢は、祝君の居る病院へ行くんですよね? 私は滝沢に同行するので、千晶さんと寿途君が帰ってきたら現在の状況説明をお願いします。もし、ふたりが三十分経っても戻らないようでしたら、“匣”へ行ってください」
その場合、と更に続ける。
「私から《P✕P》の芹沢凌君に、依頼します。三浦洋介、本名キリル・スミルノフを殺してください」
へ……? と呆気に取られている凌を無視し、臣弥は笑顔のまま、ポン、と凌の肩を叩いた。
「お願いしますね、暗殺屋さん」
言うだけ言い終え、凌の返事も待たず、臣弥は凌の来た方向へ歩いて行った。その黒い後姿が、再びスマホを耳へ当てている。
「もしもし。私です。滝沢がやられちゃいましてねぇ。君の出番ですよ」
そんな事を言いながら遠くなる後姿を見送りながら、凌は呟く。
「何で、会長室で話した内容を知ってんだ?」
答えたのは、今まで凌の腕を抱くようにくっついていた、天后だった。
「盗聴器ってヤツじゃない?」
「そうか……」
謀反を起こす人物を抱えている自覚があるなら、そういった物を設置している可能性は大いにある。監視カメラは目立つので、盗聴器を複数設置してあるのだろう。
「……にしてもあの人、ほんと、何考えてんのか分かんねぇな……」
ぽつりと言ったと同時に、臣弥が何もない所で躓いたのを、凌は遠目に確認した。




