第三十七話『黒い人』―5
滝沢の視界の端に大きな氷が見える。いや、ドアが凍っている。そう理解した直後、ドアが砕け、ある人物が入って来た。
水色掛かった長い銀髪の、見知らぬ美女と共に。
「お邪魔します」
洋介の銀髪とは違い、艶の少ない白い髪が僅かな風に揺れる。シナモン色の瞳が、滝沢と洋介を交互に捉えた。エメラルドグリーンとシナモンがかち合い、洋介はいつもの愛想笑いを見せず、不機嫌さを露わにして口を開く。
「芹沢……凌君、だっけ? 何で君がここに居るのかな?」
「オレは、有事の際に《自化会》の力になるよう言われていますから。因みに、安宮祝さんには《P・Co》系列の病院へ行ってもらいます」
祝が病院へ……という言葉に、滝沢が洋介を凝視した。
「洋介……祝に何しやがった?」
「両腕を切り落としただけですけど、何か?」
洋介は自分が祝に対して行った事を、悪びれもせず告白した。それに対して滝沢は驚愕と怒りを表情に映したが、洋介はそれを無視して凌へ緑色の瞳を向け直す。
「それより、何で君が祝の事を知ってるのかな? っていうか、部外者が首を突っ込んでいい事じゃないと思うんだけど」
「ですから、オレは今、《自化会》の協力者です。祝さんの事は、天后……オレの式神が見付けました。『拓人が作った結界符の気配がする』って。で、そこで『滝沢さんが狙われている』と聞き、この場所も天后が見付けました」
洋介とのやり取りに、少しばかりの苛立ちを滲ませている凌を遮り、天后が一歩前へ出る。
「うふふ。超下級で“名”が無い式神――いえ、この子、厳密には“シロクマの霊”ね。そんな存在でも近くに居れば、気付いて当然よぉ? だって、あたしは十二天将の水神、天后様だもの」
銀髪美女が、長い人差し指を口元に当てて笑う。人ならざるその存在は、豊かな胸元を揺らし、洋介にウインクを飛ばした。だが、洋介に友好的な笑みはない。
「芹沢君、貴重な休日に、ご苦労様だね」
洋介の頭にも《P×P》の勤務日くらい、入っている。勤務時間は九時から十七時。休日は、水、土、日曜日に加え、祝日など。
今日は土曜日。凌も自由がきく。休日なので、いつものスーツ姿ではなく、上は黒のジャージ、下は黒のジーンズパンツを着用している。
「もう少し早く来るはずだったんですけど……すみません。こっちも立て込んでまして」
滝沢に向かって謝罪を送ると、お前が気にする事じゃない、と返され、凌は苦笑い。しかし、協力者としての責務は全うしなければ、と右の手のひらを滝沢の凍った足元へ向けた。
「少し痛むかもしれませんが、我慢してください」
滝沢が疑問を口にする前に、ジュッ、と足を覆っていた氷が解けた。熱い。だが、それは只の“熱”ではなく――
「湯……?」
自由になったが骨折していて腫れている足を摩りながら、滝沢は目を丸くした。
「天后は、さっきコイツが言った通り“水神”なんで。冷水も温水も操れます。次は骨折した患部を冷やすので、コレをハンカチか何かに包んで腫れているところへあててください」
言いながら、凌は手のひらに小さな氷を何個か出現させ、滝沢へ渡した。
滝沢はいそいそとソファーへ座って、患部を冷やし始めた。
洋介はというと、その様子を黙って横目で見ていた。いつでも攻撃出来そうなものだが、天后がニコニコと洋介を見ているので、下手に動けないようだ。式神のシロも、相変わらず会長席の奥から尻だけ出している。
「さぁ、洋介さん。会への裏切り行為が露見したわけですが……大人しくついて来てくれるなら、手荒な真似はしませ――」
カンッと、プラスチックが硬いものにぶつかる、軽い音がしたかと思うと……、ドロンッ! という擬音が聞こえそうな、モコモコの煙が一瞬で部屋中に立ち昇り――天后含む、この場に居た人物たちが怯んだ一瞬の隙に、洋介は走り去っていた。
「やだ。あの子、ジャパニーズ・ニンジャ!?」
まだ完全に晴れない煙の中で、天后が興奮気味に水色の瞳を輝かせた。
「……ただのロシアンハーフだろ。っつか、コレが毒じゃなくてよかったぜ。全く……」
煙を手で払いながら、凌が嘆息した。足元には、防犯用のカラーボールが破裂したような残骸が散らばっている。
「って、何逃がしてやがんだ!」
怒れる滝沢に天后が近付き、溶けてえぐれた腹部を掴んでいる滝沢の手に、白く細い手を重ねた。
突然の事に滝沢は、はっと天后を見る。おおよそ体温の感じられない感覚に驚いたのだ。次いで、人間離れした美貌が目の前にある事に気付き、ぎこちなく顔を逸らせた。
見た目に反して結構初心なのねぇ。天后はくすりと笑い、滝沢の手を避けさせて、怪我の患部へ手をあてる。すると天后の手元が青白く発光し、少しして滝沢は「痛くねぇ!」と声を上げた。
「ふふふ。人間が温泉に浸かって傷を癒すようなものよ。まぁ、痛みが消えたのは一時的なものだし、完全に治ってはいないから。無理に動かさず病院に行ってねぇ? 足も病院で同時に治療してもらってねーん」
ウインクを飛ばしながら天后は、電話をしている凌の隣へ戻った。鬱陶しがられているのも気にせず、主の腰に手を添えて、通話内容に聞き耳を立てている。
電話の相手は、病院の担当者。凌は、もう一台搬送用の車を寄越すように頼むと、通話を切ってスマートフォンをジャージのポケットにしまった。
腰に巻いてある帯刀ベルトへ刀を戻すと、凌は滝沢へ体を向けた。
「ウチの医療班がここへ来ますから、滝沢さんはここから動かないでください。何か言付けがあれば、可能な限り動きます」
洋介をこの場から逃がしたとはいえ、凌の行動力に、滝沢は目を見張る。
日頃の訓練の差だろう。《SS級》の連中が度々口にしている。そして、訓練内容が緩んだのは、洋介が会員の全体指揮を執り始めてからだ、という事にも、今更ながら気付く。
短い歯ぎしりの後、滝沢は声を絞り出した。
「お嬢……荒井千晶は、寿途と一緒に居れば一先ず安心だ。ただ、今は会長が一人で敷地内に居る。とにかく、会長を守ってくれ」
「承りました」
一礼し、凌は走り去った。天后は「まったねぇーん」と手を振りながら、凌について行く。
合成生物の襲来に《天神と虎》の襲撃に、洋介の裏切りに――と、一度に事件が頻発して頭が爆発しそうな滝沢は、深く重く長い息を吐きながら、ソファーへ沈んだ。
 




