第三十七話『黒い人』―2
「会長、この状態を見ても落ち着いていられるのかな……」
東陽は自分のスマホをズボンの尻ポケットへ戻し、呟いた。硝子のなくなった窓と、損傷の激しい壁を遠目に見ながら。
「会長はのんびりした人だからね」
「!?」
突然背後から声を掛けられ、東陽の整った顔が強張った。声の主を確認し、肩の力を抜く。
「洋介さん、びっくりさせないでくださいよ」
「ごめん、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけどね。部屋の前で声がしたから、つい」
東陽はこの場が洋介の自室と実験室の前だと気付き、こちらこそ騒がしくしてすみませんでした、と頭を下げた。
「ところで君、急いでるんじゃないのかい? 呼び止めてごめんね」
東陽は首を傾げる。洋介は、足を止めて養護施設棟を眺めている自分の姿しか見ていない筈なのに、何故急いでいると思ったのか――と。
何で、そう訊こうと口を開いたと同時に、両肩に手を置かれて「忙しいね」と押された。
「僕は用事があって手が離せないから、あと宜しくね」
そう言って、《自化会》会員最年長者は自室へと戻って行った。
「……僕、そんなに息切れしてたかな?」
廊下にひとりとなった東陽は、確かに走り回ってたもんなぁ、と呟き、走りだすと、階段を駆け下りた。
洋介は自室に電気もつけず、遠退く足音を聞いていた。音が完全になくなるとドアから離れ、小さく笑った。
部屋の奥にあるクローゼットから、微かにカタカタと物音がする。それに対しても、ふふ、と笑みを溢し、洋介は鼻歌混じりでクローゼットへ向かった。
「だぁーるまさんが、こーろんだ」
からっ、とクローゼットを開けた中には、ダルマ……ではなく――、
「ほぉ? おれん事ダルマにする気なんか。このクソハゲ!」
祝が居た。
椅子に座った状態で。裸の上半身は椅子に固定され、そして、在った筈のものがない。
「両腕ガッツリ切り落としたのに、元気だね」
「クッッッソ痛いわ! ホンマお前、ぶっ殺――ッぁあああッッ」
ココの骨を切るの、大変だったんだよねー。と祝の肩口を足のつま先で小突きつつ、洋介は大袈裟に肩を竦めた。
脇腹から上に視線をやると、在るべき腕がない。こんな感じの人形が、カラスに荒らされたゴミ捨て場に転がっていた事があるな、と洋介は妙な既視感を抱いていた。
両腕のない上半身というのは、すごくシンプルなシルエットをしている。背もたれのある椅子に固定しているので、影だけ見れば椅子に頭がついているように見える。
祝は鎮痛剤も打たれておらず、歯を食いしばって痛みに耐えた。呼吸の音が歯の隙間から、歯ぎしりと混ざって、狭いクローゼット内に反響している。一気に毛穴から噴き出した脂汗が、素肌を光らせた。痛みで眼に涙の膜が張っているが、零れ出すのはギリギリ耐える。
床に散っている黒いピアスの欠片に、汗が落ちた。
「両腕を斧でぶった切った時点で、ショック死していそうなものだけど。やっぱり祝は強いなァ」
全く嬉しくない笑顔と拍手をおくられ、祝の顔が嫌悪で歪む。
正直、肩口はクローゼットの扉の開閉によって生まれる風に当たっても痛い。申し訳程度に包帯は巻かれているが、止血の為以外の何ものでもないそれには、赤黒い血が滲んで広がり、固まっている。
殺さず置いているのには訳があるのだろうが……。
「利用されるくらいなら死んだるわ、ボケ!」
「ええ? ヤだなぁ。僕は祝の事結構気に入ってるから、殺さずに生かしてるのに」
心底心外だとでも言いたいのか、洋介は悲しそうに眼を瞑る。
そんな洋介の小芝居を見飽きた祝は、依然嫌悪にまみれた眼で洋介を睨んでいる。深く息を吸って、吐き出し、口を開く。
「……それや。お前の性格やったら、千晶を一番に襲ってそうなもんやけど……どういう風の吹き回しや」
問われ、洋介はにこりと笑う。いつもの胡散臭い笑顔だが、祝にとっては日常的に見ていた笑顔。違うのは、いつもは白い頬が紅潮していることか。
「僕さぁ、千晶の事、本気で好きなんだよ。いっつも自信に満ち溢れててさぁ……。ふふ。強くて、カッコイイよねぇ」
洋介の、どこか恥じらいすら感じさせる陶然とした表情に、痛みによる熱が一気に引き、祝の脊髄を冷たいものが奔った。
「だから、悲しかったり、辛かったり、悔しかったりして、ぐっちゃぐちゃに泣いた顔が見たいんだぁ」
かぁわいいだろうなぁ……。
うっとりと眼を細め述懐する洋介を見る祝の顔は、蒼い。
「その為には、誰を殺そうか。まぁ、祝じゃないよねぇ? 候補は二人……。分かるだろ?」
寿途と滝沢さん。無表情の少年と、会長に振り回される苦労人。祝の頭に、その二人が瞬時に浮上する。
「はっ。滝沢さんはまだしも……お前に寿は、殺れんやろ」
鼻で嗤い、吐き捨てた。
洋介もいつもの笑顔で応える。
「そりゃあね。あんな子どもに勝てないっていうのも癪だけど。仕方がないよ。相手は十二天将様だからさ。僕のシロじゃ、分が悪い」
本来ならばピアスを刺しておくべき小さな穴の開いた耳に唇を寄せ、囁く。
――だから、まずはさ……。
◆◇◆◇
ぱたん。と小さな音を立てて閉められた観音扉を、祝は無言で眺めた。蹴られた傷口は痛むし、自分のバカさ加減や無力感には苛立つしで、祝は溜め息を孕んだ低い声を吐き出した。
眉間の皺は深く刻まれ、微かに痙攣している。他に見るものもないので、目の前のクローゼットの扉に貼られている、札を睨んだ。
「あぁーくそ! ほんまクソ! いっそ殺せ、ボケェ!」
わあっと声を上げて叫んだと同時に、キィ、と小さな音がして――女の声が近付いて来た。
◆◇◆◇




