第三十七話『黒い人』―1
胸ポケットのスマートフォンが振動で着信を報せた直後、慌てた声が車のスピーカーから発せられた。
『滝沢さん、会長はそこに居ますか!?』
《自化会》会長秘書である滝沢英善は、車のハンドルから手を放す事無く、焦ったその声を聞いていた。
質問に答えたのは《自化会》会長である、嵐山臣弥だ。
「私はここに居ますよー。えぇっと、東陽君ですよね? どうしましたぁ?」
『本部が奇襲に遭ったんですよ!?』
おそらく、“何をのんびりしているんですか!”という言葉を省略したであろう叫び声。
滝沢は、助手席に座ってあんパンを頬張っている会長を見た。常時薄く笑みを湛えているその口元は、変わらず穏やかだ。その口角に、指が添えられる。
付いた小豆を指先で拭き取ると、口へ運んだ。
「被害は如何程ですか?」
『よ、養護施設棟が、壊滅状態……です』
会長である臣弥の落ち着き払った声に、《自化会》の状態を報告する東陽の声が尻すぼみになる。
「被害者は?」
『十五人の、施設棟の子どもの死亡が確認済みです』
報告を聞いた臣弥は、そうですかぁー、と、やはり慌てる様子はない。
「ところで、寿途君は居ますか?」
『えっと……いえ、千晶さんと出掛けたみたいです』
再び、気の抜けるような「そうですかぁー」。
「報告、ありがとうございます。これから私も帰ります。詳しい話は、その時に聞かせてください。失礼します」
そこで、滝沢は通話を切った。横目で臣弥を見やれば、次のパンを掴んでいる。
臣弥はパニーニに挟まれた真っ赤なトマトの輪切りを眺めながら、嘆息した。
「寿途君が生きているのは、不幸中の幸いってヤツですかねぇー……」
血縁のない息子の安否を確認出来て、臣弥はひとまず安堵する。が、『養護施設棟が壊滅状態』……東陽はそう言った。
まだ修復できていない、穴だらけの格技場が頭を過る。
「うぅーん……。最近、出費が嵩みますねぇ……」
今度は、重い溜め息。
滝沢は、もっと気にするべきところがあるだろう、と――こちらはこちらで、太い息を吐き出した。ハンドルを捌きながら、ところで会長、と助手席へ視線を送る。
「パンを食べる順番、逆の方がよかったんじゃないですか?」
「うぅーん。私も、失敗したなと思いました。でも、これはこれで美味しいから結果オーライですよ」
かぶりついた拍子に、トマトの汁がダッシュボードに飛び散った。




