第三十六話『赤い人』―3
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「……ごめん」
小さな謝罪の言葉を、砂利のぶつかる音が掻き消した。
「やくたたず!」
「お前が死ねばよかったんだ! ばぁーか!」
「ばぁーか!」
「しね!」
「ばぁーか!」
小学生らしい、シンプルな罵声。小さな手が、足元の砂利を掴んでは投げる。無抵抗な的は動かず、それを受け止めている。
「こぉらぁー! アンタら、何してんの!」
「うわっ!」
「ちあきねーちゃんだ!」
「ショタコンだ!」
「にげろー!」
蜘蛛の子を散らしたように、走り去る子どもたち。
「ったく。あんのクソガキども……。寿君も、ちょっとは言い返したら?」
寿途は無言で首を振る。遠心力によって、髪の中から小石が跳び出した。
「悪いのは、ぼく。来るのが、おそかった。言い返す言葉は、ない」
「相変わらず、寿君はイイコだわねー。アタシだったら、あいつら吊るし上げてサンドバックにしてるわよ」
寿途が微かに笑ったのを見て、千晶は満足そうに寿途の背を叩く。
目の前には、朝まで存在しなかった、百日紅の木。庭木としては好ましくないとされる木。人の魂が宿る、ともされ、人の生気を吸う、とも言われている木。
だが、夏には美しい紅色の花を咲かせる木だ。
夏でもないのに満開の花を眺めながら、千晶は目を細めた。
「ねぇ、寿君」
「なに?」
「辛くない?」
紅い花を見ていた寿途だったが、少し考え、千晶を見上げた。
「ごめん。“辛い”が、よく、わからない」
「そっか」
千晶は寿途の肩を抱くと、焼肉食べに行こっか! と片目を瞑った。
焼肉屋“匣”。年配の女性が切り盛りするこの焼肉屋は、地下組織御用達の貸し武器庫でもある。故に、地下組織の情報も、ここに集まりやすい。
千晶は女店主に焼肉定食を頼むと、大きな溜め息をついた。
「ねぇ、やすえさん。《天神と虎》って、何なんの?」
「そうさねぇ。ちょっと遠いからさ。詳しい事は、わたしゃ知らないよ」
やすえは煙草をふかす。店内分煙、禁煙が義務付けられる中でも、彼女は自由だ。
「でも、まぁ、一人で乗り込んでくるなんてなかなか天晴れな奴だねぇ」
「迷惑でしかないわよ! 養護施設棟はぐちゃぐちゃになるし! 会長は不在だし!」
養護施設となっている建物を破壊したのは、主に千晶なのだが……。寿途はそんな事をちらりと思ったが、彼はそれよりも、早く焼肉が食べたかった。
短くなった煙草を灰皿に押し付け、やすえは豪快に笑う。
「奇襲上等じゃないか! ヤクザの本部に一人で乗り込んで、ぶっ潰したお嬢ちゃんが! よく言うよ!」
あっはっはっは! と手を叩くやすえに、千晶は真っ赤な唇を尖らせた。
「あたしの事はいいのぉ!」
「あん時の英善の顔ったら、なかったよ!」
懐かしいねぇ! と、やすえは笑いながら、器に白米を装っていく。出来上がった焼肉定食を二人の前に置き、店主も隣の席へ腰を下ろした。
寿途が、手を合わせてから肉に食らいつく。その様子を、やすえは煙草の先に火を点しながら見届ける。
輪になった白煙を口から出しつつ、やすえは頬杖を突いた。
「寿君は、千晶ちゃんの武勇伝、知ってんのかい?」
寿途は首を横へ振る。味噌汁を飲み、やすえを見た。無言だが、それを「聞かせて」と捉えたやすえは、煙草の灰をトンと落とした。
「千晶ちゃんが、でっかい反政府組織の出身だってのは、知ってるかい?」
寿途は、漬物を咀嚼しながら首を左右に振った。
「ま、所謂ヤクザさね。そりゃあ大きな組だったんだ。英善は、そこの幹部の一人だったんだよ。そんでねぇ、内部分裂が起きてねぇ」
すぅ、と息を吸い、煙草が短くなる。吐き出された白い煙は、楕円をいくつも描いた。
「たったの一晩で、壊滅させられたんだよ。当時組長をやってた千晶ちゃんの父親がね、英善に、まだ小学生だった千晶ちゃんを連れ出すように命令してたお陰で、二人は生き残ったんだよ」
千晶ちゃんの父親は、当然、組と共に没したんだけどね。と続けられた。
それから、親交のあった《自化会》の世話になった事、その後、高校生になった千晶が、制服のまま機関銃を抱えて裏切り者の組織に乗り込んだ事、その組織が数時間で壊滅した事を、やすえは絵本でも読むように寿途に語った。
「セーラー服と機関銃……って、寿君に言っても分からないよねぇ」
苦笑するやすえに、寿途は無表情のまま頷いた。
「あたしが行ってた高校、セーラー服じゃなかったんだけど」
とは、箸で肉をつまんでいる千晶の言葉だ。
「ま、内部分裂やら分断ってのは、珍しい事じゃないし。あたしのは、完璧、私怨だったからね。英善にはかなり絞られたわー」
っても、その後めっちゃ褒められたんだけどね! と、千晶は豊かな胸を張る。
ずっと黙って聞いていた寿途も、千晶にささやかな拍手を送った。
「一応、会長には言ってたのよ? 英善は心配性だから、言ったら面倒くさいと思って、言わなかっただけー」
「そん時、千晶ちゃんがウチの倉庫から持って行った弾は、千発だったよねぇ」
「やすえさんは、相変わらずよく覚えてるわー」
「あんなに大量に持って行ったら、嫌でも覚えてるよ。余った分も、全弾ぶっ放して来ちゃったんだからねぇ」
千晶は、祝砲……みたいな? と明後日の方向を見た。
吸殻を灰皿へ捨てると、やすえは脚を組み替えた。ごちそうさまでした、と手を合わせる寿途に、温かな視線を送りながら。
「あたしが使った弾代の半分は、潰した組織から持ち出した金品で賄ったからさ。会長からもそんなに怒られなかったしぃー」
実質、使ったのは半分の五百発! という千晶の言い分。しかし、実弾――しかも千晶の扱う小機関銃に使用されるNATO弾の値段は、拳銃のものよりもお高い。
千晶は見た目だけでなく、金遣いも派手だった。
だが、そんな千晶に文句を言う人間は、祝と拓人くらいのものだ。他の会員は、黙認している。取引先の武器屋からしてみれば、大層ありがたい存在だろう。
千晶も定食を完食し、水を飲み干してからソファーの背もたれに体を預けた。何だかんだで、腹の内側が痛むらしい。
「怪我を口実に、ちょっとはおとなしくしてなよ、お嬢」
「こんな傷、明後日には治してやるわよ」
「無理、よくない。帰ったら、寝てて」
小学生彼氏に言われては、千晶も閉口するしかない。
「じゃ、もうちょいゆっくりしたら、帰って寝るとするわ」
正直、ここまで歩いて来るのもキツかった。
(お腹すいてたから食べたけど……お粥とかの方がよかったかしら)
そんな事を考えながら、千晶はソファーの背凭れに身体を預けた。




