第三十六話『赤い人』―1
千晶は赤い唾を吐き出すと、舌を弾いた。深呼吸をして、脇腹を押さえたまま立ち上がる。
「ありがと、寿君。助かったわ」
前方には、木の枝を張り巡らせたような、大きな壁。腹部には、ひんやりとした感触。薬草で作られた湿布だ。
作ったのは――、
「千晶、生きててよかった。さがって」
『寿君』こと、寿途。《自化会》会長である臣弥の養子であり、《自化会》の《SS級》であり、十二天将である木神“六合”の能力を体内に宿している、小学生。
六合の遺伝子配分が少ないため、翔とは違い、目の色は黒い。漆黒といってもいい程黒く、光りを吸収しているかのように、あまり反射を見せていない。同じように、黒い毛色をしている。
癖毛の黒髪が、ふわりと揺れた。
「まだ、生きてる」
前を見据えて、寿途は呟いた。
青いオーバーオールの男の表情が、笑みから驚愕へと変わる。それを無表情で見届けると、寿途は右手を横へ広げた。
「青い人、千晶に、ケガさせた。それは、よくない」
おおよそ生気の感じられない表情のまま、手を振り下ろす。すると、床から木が“生えた”。ここは三階。もちろん、土もない。
そこから生えた葉のない木々に、青いオーバーオールの男が呑み込まれる。何か言っていたようだが、木のうねりに巻かれて聞き取れない。
みしみし、めきめき、という音も、木の擦れる音なのか、他の何か、なのか……判断がつかない。
木と木の間から、赤黒い何かが伝ってきたのだが、それも、寿途が手を振り払うと、木々諸共消えてしまった。
その場に在るのは、穴だらけの壁と、壊れた窓と、赤い女と黒い子どものみ。
千晶は、ふぅ、と息を吐くとその場に尻をついた。
「あぁーもうー! 痛い! お腹えぐれたぁー! あだだだだだだ」
「千晶、大きな声、もっと痛い。湿布、しっかり貼って。少し、休もう」
うあーん! と両手を突き上げて騒ぐ千晶に、寿途は寄り添い、べったりと赤い腹に手を翳した。
それで、すぅ、と傷が治ればよいのだが……そんな芸当は寿途にも出来ない。ただ、傷口を“塞ぐ”事は出来る。皮膚の代わりにヘチマの繊維を張り付け、その上をドクダミの葉で覆った。
少し痛みが和らぎ、千晶はあぐらをかいて、ところで寿君、と寿途に視線を落とした。
「さっきの青いヤツ、どうしたの?」
千晶は、彼が死んだとは思っていない。
「洋介の所へ、送った」
自室に突如として生えた木にあたふたする洋介を想像し、千晶が笑う。しかし、すぐに腹部を押さえて悶絶。
寿途は、さっき言ったのに……、と、変わらぬ表情で千晶を見やった。
しばし痛みに震えていた千晶だったが、でもねぇ、とポツリ、呟いた。
「洋介の事、あんまり信用しちゃダメよ」
無表情で、首を少し傾けた寿途の頭を撫でながら、千晶は言う。
「あいつ、嘘吐きだから。寿君、この意味分かる?」
寿途は首を横に振る。
「寿君は相変わらず、純粋ねぇ」
千晶は寿途に向かって、ふふ、と笑うと、視線をスライドさせる。
「あいつは《自化会》の癌なのよ」
千晶は割れたガラス越しに《自化会》本部を眺めながら、吐き捨てた。




