第四話『団欒』―2
台所では、康成が鼻歌交じりに包丁でリズムを刻んでいた。
いや、キャベツを刻んでいた。
そこへ、風呂掃除を終えた倫が合流する。
「康成さん。それ、なんていう曲ですか?」
「え? あぁ。水曜日にやっているドラマの主題歌です。面白いんですよ。猫が、高級マンション内に潜む愛憎劇を滅多切りしていくんです。先週は最上階に住むマダムが、最下層に住む主人公宛ての郵便物の受け取り口に、高級サバ缶の蓋を仕込んでいて――」
康成は嬉々として説明しているが、倫にはわけがわからない。
疑問符が倫の頭部を囲っている。
「そういえば、翔さんたち帰りが遅かったですね」
話しについていけないので、話題を替えた。
康成が頷く。
「ええ。嵐山さんが学校まで訪ねて来ていたらしいですよ」
「そうなんですか。あれ? でも翔さん、まだ左目の眼球戻ってませんよね?」
康成が再度頷いた。
「仕事じゃないんでしょう。あの人も、余程切羽詰らない限りは、翔様に無茶をさせませんよ」
綺麗に千切りされたキャベツを皿へ盛りながら、康成が微笑む。
倫も頷いた。
「あぁ。じゃあ、お呼ばれですかね」
こんがり衣のかたまりを油から引き上げながら、倫がのんびり呟く。
芳ばしい薫りが、室内に広がった。
「面倒な事じゃなければ良いんですけど。まぁ、多分、面倒な事なんでしょうね」
面倒な事には慣れている。
決して、慣れたかったわけではないが。
康成は、綺麗な弧を描いた口元のまま、味噌汁を温め直すためにコンロへ手を添えた。
倫から夕食の支度ができたと知らされ、茶の間へ降りた。テーブルには、とんかつ、サラダ、味噌汁が並んでいる。
少し離れて、寒太用の食事台も置かれている。
自分の席に着き、翔は他の面子が揃うのを黙って待つ。
程なくして、光と拓人が姿を見せた。
全員が席に着いたのを確認し、康成が座ったまま挨拶をする。
「皆さん、今日もお疲れ様でした。頂きます」
「頂きます」
全員が口を揃える。傍から見れば、下宿所のような光景だ。
拓人は下宿者なので、あながち間違いでもないのかもしれないが。
翔の後について下りてきた寒太も、自分の皿を突いている。
少しして、翔が挙手した。
「ねぇ、聞いていい?」
光が、噛み砕いたキャベツを飲み込んでからきょとんと訊き返す。
「あら、どうしたの?」
集まる視線の中、翔が言葉を紡いだ。
「あのさ、この家で一番偉いのって、誰かな?」
三人の視線が翔に注がれる中、拓人の目が光を捉えたが、すぐに翔へ向けられた。
返事がない。
あまり自分では言いたくはないが、意を決して、翔が言い放つ。
「俺だよね?」
「翔ったら、珍しく強気で格好いいわ」
珍しく、光から面と向かって褒められ、翔が少したじろいだ。
「え、あ、ありがとう……」
「当たり前でしょう? 今更確認する事でもないですよ。まぁ、財布を握っているのは僕ですけど」
味噌汁の入った椀を持って、康成が笑いながら言った。
「じゃあさ……ホント、今回は本気で言わせて貰うんだけど……」
いや、いつも本気なんだけど――と、胸中で付け加え、続ける。
「もう、俺に敬語使うの禁止にしようよ。ついでに『様』とか『さん』とか、敬称も無しで――」
「いやぁ、お肉が良いと、とんかつも美味しいですよねー」
言い終わる前に、康成が白々しく話題を変えた。
翔が睨む。
「康成」
「聞いていますよ。でも翔様」
敬語も敬称も止めない兄に、翔は苛立つ。
「だから、止めてって」
だが、康成も引き下がらない。
「でも、ですよ? 例えば敬語を止めたとして、翔様の事は何て呼べば良いんですか?」
「そんなの、呼び捨てで良いよ」
雷に打たれたかのような衝撃を受け――背後に稲妻が見えた気さえする――康成がテーブルに崩れた。
今まで黙々と食事を摂っていた拓人が、ふと箸を止める。
「っつか、オレ、康成さんと倫さんが敬語以外を喋るトコ見た事ねぇんだけど」
その場を沈黙が包む。
沈黙を破ったのも拓人だった。
「でも、翔がすっげぇ悩んでるのも知ってるからさ。要するに、翔は言葉から来る疎外感っつーか、距離間を縮めたいんだよ。率直にキツめに言い表すと、特別感がウゼェんだよ。な?」
翔が強く頷く。
そうそう。それが言いたかったんだよ。
拓人、ナイスアシスト! と、顔に書いてある。無表情だが、書いてある。
無表情でサムズアップまでしている。
康成が、テーブルから顔を上げた。
「言わんとしている事はよく分かるんですが、ずっとこうやって喋っているので、急に変えろと言われても……」
反論したのは翔だ。
「康成や倫がウチへ来た時の口調は、今とは全く違ったよ」
それに興味を持ったのは、光だった。
「へぇ、どんな感じだったの?」
「えっと、ふたりとも拓人より口が悪かったよ。俺、康成に『こいつ生きてんのか?』って言われたし、倫には……関西弁かな。何か言われたよ」
「ちょっ! 十年以上も前の話を持ち出さないで下さいよ!」
「何でボクにまで飛び火してるんですか!?」
今まで無視を決め込んでいた倫も、堪らず叫んだ。
「や、元々倫さんも話題の中心にいたから……ってか、口の悪さをオレ基準にすんなよ」
拓人がツッコむ。
「どうこうごちゃごちゃ言ってても解決しないんなら、やってみれば良いじゃない。取り敢えず、翔の事呼び捨てにする事から始めて……そうね、もし敬称を付けたら、康成さんのTシャツと倫さんのお面を一枚ずつ捨てていくっていうのはどうかしら」
先程よりも強い衝撃が、康成と倫を襲った。
拓人が小さく「Tシャツ?」と呟いたが、光は聞こえないふりをした。
「ただ、血が繋がってるからって仲が良いってモンでもないし、仲の悪い兄弟なんてザラなんだから。形に拘らなくても良いとは思うけどね」
言い終え、味噌汁をすする。
光の様子を眺めていた翔が、首を傾げた。
「光さん、またお兄さんと喧嘩したの?」
「違うわよ。喧嘩なんて。送られてきたメールも電話も全部無視してるから、喧嘩にはならないわ。そうでしょ?」
意見を求められ、翔は反対側へ首を傾ける。
「え……うん。えっと、そう……なのかな……」
翔の煮え切らない返事は、いつものことだ。
光は構わず続ける。
「別に、アタシたちは仲が悪いわけじゃないの。ただ、一定の距離をとっていた方が良いっていうだけ。お互いの為にね」
返事に困った翔は、取り敢えず頷いた。無言で。
「光さんのトコは兄貴が特殊だからさ。あんまり参考にならねぇんじゃね?」
困り果てている翔を見かねた拓人が、話題に乗っかる。
「翔は“普通”が理想だもんな」
拓人が翔を見やった。
何をもって“普通”と断定されるは定かではないが――それとは程遠い目の前の人物は、小さく頷いた。
手に入らないものほど、欲しくなるんだよなぁ……。
拓人は呟きを声に出さず、飲み込んだ。
「俺も、はっきり理想像があるわけじゃないんだけど……でも何だか今の状態は居心地が悪いんだ」
明白な答えはない。
翔はバツが悪く、目を伏せた。
場の空気が少し重くなっていた時――甲高い笑い声が響いた。
「はっはっは! 何を皆して黙りこくっとるんだ?」
その人物は、皆が囲っているテーブルの数十センチメートル上に、唐突に現れた。
翔と同じ顔をした、黒髪の“少年”。
深叉冴だ。
「あれ、父さん……秀貴、見つかったの?」
「勿論だ! あれは存外近くに居てな。高知の龍馬像を眺めているところを捕獲して、本部に届けてきたぞ!」
「国内に居ただけマシっちゃーそうだけど……相変わらず放浪してんな……」
息子が半眼で呟く。
深叉冴は宙で一回転して見せ、床に足をついた。
「で、儂の用事は済んだので帰ってきたのだ。変わり無いか? 主殿」
光に目配せすると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ええ。お帰りなさい」
「深叉冴様の夕食避けてありますから、ご一緒しましょう」
康成が言うと、深叉冴は人差し指を立て、自分の口元に当てた。
「康成ぃー。『深叉冴様』ではなく、『みさちゃん』で良いぞ? ホラ、今の儂、可愛いじゃろう?」
先程までの話題を思い出し、その場に居る大半がデジャヴを感じている中――
翔は、その場でくるくる踊るように回る実父を見て、砂利を嚙んだような顔になっていた。




