第三十三話『父子』―4
槐家が父の襲撃にあうまで、あと三時間。
結局拓人は、今日まで何も言えずにいた。
隣では、その家の娘がニコニコと笑いながら三角形のサンドイッチを頬張っている。からしマヨネーズで和えられた茹で卵を口の端にくっつけたまま、少女は拓人の顔を覗き込んだ。それに対して、かわいい、と思う余裕は、今の拓人にはない。
「拓人、最近元気ないね? 何か悩み事? 拓人の成績なら、進路の心配は――」
「進路……か……。違う。違うんだ。えっと、…………。うぅんと……、ッてっ!?」
額を指で弾かれ、拓人が額を押さえて頭を垂れた。
少女はご立腹だ。膨らませた頬から、ゆで卵の欠片が落ちた。
「歯切れが悪い! もっとひゃっきり話してよ!」
「それを言うなら『はっきり』だろ?」
「うううう、うるっさいわね! ちょっと噛んだだけじゃない!」
耳まで火照らせてムキになる彼女に、拓人の表情も綻んだ。
この微笑ましくも平凡な日常こそ、幸せってなものだろう。と訴える脳内の自分と――、伝える事があるだろ、このボケ! と言う、もう一人の自分。そんな二人の自分が頭の中でせめぎ合っていると、昼の休憩は終わった。
午後の授業など全く頭には入ってこず、そもそも自分が授業に出たのかさえ記憶に怪しい。拓人が気付いた時には、HRの終了を知らせるチャイムが鳴っていた。
下校時間。
いつもなら、放課後残って歌ったり喋ったりするために、一旦中庭で合流する。拓人は重い足を引きずるように、中庭へ向かった。
だがそこに、愛莉の姿はなかった。
拓人は地面を蹴った。通学鞄を握ったまま。挨拶運動中の風紀委員の脇を走り抜け、校門を飛び出す。
どこに行く? どこへ行けばいい? 愛莉の実家の場所など、知りはしない。
考えても答えは出ず、だが足を止める事はなかった。そして、答えは存外、早く現れた。学校から出て、十分ほど走った時だ。
沈みかけた太陽の方角――西に、よく知った威圧感を捕捉した。
目的地は定まった。だが、良い予感は全くしない。胸騒ぎが全身に拡がり、悪寒さえ感じる。そんな震えを振り払うように、一心不乱に駆けた。
鞄は、いつの間にか手から消えていた。
拓人は石塀に囲われた家の前に立っていた。きっちり塀に沿って張られた結界を見回す。早鐘をうつ心臓を押さえ、耳の奥が痛むのにも耐えつつ、自分が入れるだけの“隙間”を作り、猫のように石塀の上から敷地内へ跳び込んだ。
死屍累々。そんな四文字熟語が、拓人の脳裏に大きく浮かんだ。
無数に倒れている人。殆どが、黒いスーツを着ている。Tシャツや着物の人物も疎らに居た。立派な日本庭園だ、などという感想は、全く浮かばない。そもそも、立派な灯篭は倒壊し、池の鯉は全滅している。無事なのは、人が引っ掛かっていない植木くらいのものだ。
倒れている人は、全員死んでいる。だが、血の一滴も見えはしない。当たり前だ。殺した本人は武器など使わず、一瞬で、体内から生き物を殺す。この世に産まれ出た瞬間、母親を心臓麻痺で死なせた――とは、誰から聞いた話だったか……。
「親父」
威圧感の中心。Tシャツにジーンズ。いつもと変わらぬ父親が立っていた。その後ろに二人。一人は愛莉。もう一人は陰に隠れて見えないが、愛莉より小さい。
「『来るな』とは言ってねぇけど、何で来たんだ?」
気怠げに息を吐く父。横たわる人間を目の前に、いつも通り。
「愛――」
拓人の声は相手の名前を紡ぐに至らず、ぶつりと止まった。
父の腕にしがみ付いている愛莉の顔は、血が巡っていないかのように青白い。生気が感じられない――とは、こんな顔の事をいうのだろう。
拓人は何も出来ず、棒立ちのまま、その様子を見ていた。
(そりゃあ、身内が目の前でバッタバッタ死んでりゃ……そうなるか……)
殺している犯人にしがみ付いているのが、ひどく矛盾しているが……。足元を見やれば、結界用の護符が四枚。生存者を取り囲むように設置されている。拓人自身は、父の持つこのとんでもない体質の驚異に晒されない。幸か不幸か。父の遺伝子が確実に、拓人の中に有るからだ。体に痺れはあるものの、この程度ならば死にはしない。
父の事だ。おおかた、『死にたくなければ自分から離れるな』とでも言ってあるのだろう。
拓人の見る限り、父の“仕事”は終わっている。
ジャリ、と足元で小石が擦れた。その音に、愛莉の身体が跳ねる。
拓人の抱いていた嫌な予感は、この瞬間沸点へ到達した。そんな時、意外と咄嗟には動けないものだ。
「おかあさん――ッ!」
愛莉は確かに、そう叫んだ。そして、飛び出した。先程まで放心状態だったとは思えない速さで。
三歩。
たった三歩前進しただけで彼女の動きは止まり、地面に倒れた。何の抵抗もなく、砂利に体をぶつけて。
拓人にその直後の記憶は薄く、よく憶えていない。想い付く限りの罵詈雑言を父親にぶつけた事は、ぼんやりと覚えている。
はっきり覚えているのは、砂利に倒れ込んだというのに、愛莉の顔は穏やかで美しかった……という事だけだ。
それからというもの、拓人は父と口を利かなくなった。
母はそれを悲観し、数日後――。父と拓人双方に話し合う場を設けた。だが、拓人は話すどころか顔も合わせようとしなかった。
母は拓人の頭を両手で掴み、父の方を向かせる。
「秀貴さんも、何とか言ってくださいな」
「何を言えってんだよ。何言ったって、火に油だろ」
こんな感じで、父も話し合いを放棄している。母は米神を押さえて嘆息した。
そんな中、拓人はひと言――。
「親父なら、愛莉の事掴んで止めれただろ」
「俺ぁ事前に『動くな』、『動くと死ぬぞ』つったんだ。自分から死にに行く奴を、止めたりしねぇよ」
父は人の生死についても、放任だった。
場の空気の質が変化するほど、拓人の怒りが露わになる。
父は母に向かって、「ほらな。火に油」と言い、母に「そんな言い方をしたら、当然です!」と怒鳴られた。
「てめぇ、マジぶっ殺す!」
誕生日に父から貰った銃を抜き、銃口を向ける。回転式弾倉には、実弾。
「拓人さん、銃なんて持って……危ないから下げなさい!」
「彩花は後ろに下がってろ」
父は相変わらず気怠そうに言った。
母を後ろへやる父の手が、手首にある数珠へ添えられる。それに気付いた母が、父の腕へしがみ付いた。
「秀貴さんまで、止めてくださ――きゃっ」
畳に足袋を滑らせ、母がバランスを崩した。
その拍子に、父の数珠がひとつ外れ――。
実に呆気なかった。
普段は数珠で抑え込んでいる膨大な電磁波が、数珠がたったひとつ外れただけで流れ出し、間近に居た母の命を奪った。
結果、父と拓人の仲は戻るどころか悪化。
残ったのは、母が万一の時にと保管していたメッセージ付きのピアスと、父との蟠り。
そして拓人の精神状態は究極に悪くなり、思春期の不安定な心理状態も相まって荒れに荒れ、周囲に当たり散らし、手が付けられなくなり、仕舞いには結界でガチガチに固められた山へ放り込まれ、その山中で式神の天空と出会い……なんやかんやあって、拓人は《自化会》へ復帰した。




