第三十三話『父子』―2
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三年ほど前になる。
中学生だった拓人には、付き合って久しい彼女がいた。黒髪の綺麗な娘だった。
名を、槐愛莉という。
愛莉は整った顔をしていたが、“美人”というには幼い顔をしていた。大きく丸い目は、小動物の様だ。成績は中の中だったが、活発で運動神経が良く、コーラス部に所属していた。
「ちょっと顔がいいからって、調子にのんな!」
そんな言葉と共に飛んできた拳が、拓人の左頬へクリーンヒットした。避けようと思えば避けられたが、甘んじて受けたそれは――思いのほか強力だった。
成山拓人、中学二年生で十四歳の時だった。
拓人は別に、調子にのっていたわけではない。手紙で昼休みに体育館裏へ呼び出され、隣のクラスの女子から付き合ってほしいと告白され、それを断っただけだ。
自分の立場を考えれば、女子と付き合うなどあってはならないと思っていたし、そんな気持ちにもなれなかった。ただそれだけなのに、何故殴られなければならないのか。しかも、付き添いの女子に。理解が出来なかった。
痛む頬を押さえ、信じられない気持ちでいると、殴ってきた女子は突然謝ってきた。
「ごごご、ごめん! ちょ、何で避けないの!? 成山君、運動神経いいんでしょ!?」
「いや……えっと、突然殴り掛かられると、避けるのむずい……」
そう答えるのが、精一杯だった。
愛莉は拓人に謝り倒し、
「で、何で付き合えないのよ!?」
と拓人に食って掛かった。愛莉の友人は、顔を真っ赤にして俯いてしまっている。居た堪れなくなり、拓人は頭を掻いた。
「別に、嫌いとか、そういうんじゃねぇんだよ。ただ、話した事もないし……。よく知らない相手と付き合えるかっていうと……、なぁ……。嫌な思いさせたんなら、悪かった」
告白してきた女子に頭を下げる。女子は、今にも泣き出しそうだ。消え入りそうな声で、大丈夫です、とだけ告げ、走り去ってしまった。
置いて行かれ、愛莉も「ちょっと待ってよー!」と叫びながら、友人を追って走っていった。
「……女って、よく分からねぇな……」
拓人は呟くと、午後の授業へ向かった。
そんな出会いだった。
それから、体育の授業でつい目が彼女の姿を追っていたり、コーラス部の声が気になったり、度々声を掛けられたりと、些細な事がいくつも積み重なり、ひと月もしない内に二人は付き合う事となった。
拓人が通っている学校は、政治家、医者、弁護士、暴力団関係の子どもが多く通っている。所謂“金持ち学校”だ。常に横の繋がりを作り、競争し、腹を探り合う。
そんな環境の中にありながら、愛莉は「そんなもの自分には関係ない」といった様子で、実に楽しそうに学園生活を送っていた。
学校など学歴作りの為だけに通っていた拓人にとって、新鮮な存在だった。音楽の授業で専攻していたヴァイオリンの練習をしていると、その音に合わせ、愛莉はよくハミングしてきた。
それがとても心地よく、練習の必要もないのによく放課後残って練習をしていた。
そんな生活が一年ほど続いたのだが……幸せは長く続かなかった。中学三年生。同級生が皆、進路が、受験がと忙しい時に、その事件は起きた。
「お前、付き合ってる女がいるのか」
夕食時に、父親からそんな話を振られた。Tシャツにジーンズ。髪は金髪で、目付きが悪い。両手首には数珠がふたつずつ。
一見すると、ヤンキーのような父親だ。同級生にはチンピラだと思われているに違いない。
そんな父からこんな話題を振られるとは一ミリも思っていなかった拓人は、自分の耳を疑った。
母親は味噌汁の入った器を置きながら、目を輝かせた。淡い色の着物を纏い、長い黒髪を後頭部でまとめている。着物の袖を押さえて配膳する姿は綺麗だな、と拓人はいつも思っていた。
力が入ったのか――母がテーブルに置こうとしている湯呑みに少しヒビが入ったが、それに関して拓人は気付かないフリをする。
「まぁ。拓人さんったら、全然教えてくれないんですもの。どんな娘なの? 今度紹介してくださいな」
「別に。普通のやつだよ」
思春期特有の素っ気なさで答えれば、母は目を潤ませた。
「拓人さんのいけず! 教えてくれてもいいじゃないですか。ねぇ、秀貴さんもそう思うでしょう? 何とか言ってくださいよ」
「俺ぁ別に、拓人が誰とどうこうしようが知った事じゃね――」
「んもう! 秀貴さんも秀貴さんですよ! わたしは気になって、夜も眠れなくなってしまいます!」
よよよ、と着物の袖を顔に当て、母は泣き崩れる真似事をする。いや、実際に袖が濡れている。
拓人の母、彩花は物腰柔らかく、いつも朗らかに笑い、どこか儚げで、そうかと思えば、時折瞳に燃えるような光りを宿す。そんな女性だ。
拓人は母方の祖父母を知らない。その話題を、母親が頑なに嫌がるからだ。
父方の祖父母は、拓人の生まれるずっと前に他界したのだと聞かされている。居ないのが当たり前なので、特に寂しいと感じた事はなかった。両親共に健在というだけで、幸せだと思っている。とても恵まれているのだと、子ども心に思って育った。
事実、母はとても優しく――多少過保護だとは思いもするが――美しい。父も、口数は少ないが家業のいろはを、事細かく教えてくれた。
使いようによっては人を一度に何人も殺す事が可能な能力というのは恐ろしくもあるが、ものは使いようだ。きちんと理解し、使いこなせれば自分も他人も助ける事が出来る。
拓人は、幼少期から単車に乗った特撮ヒーローが好きだった。自分が生まれるより前から続いているシリーズだ。自らを犠牲にして多くの人を助ける姿に憧れたものだった。
しかし、家業は“呪禁師”。まじないで人を助けたり殺めたりする職業だ。主に、白い紙に墨で文字や図形を描いて札を作る。昔ながらの手法である。ヒーローものの作品に登場しても、敵側であろう職業。字面的にも、よくてダークヒーローだ。
いつからか、ヒーローに対する憧れにも蓋をした。そもそも“天才の絞りカス”と呼ばれる自分だ。そんな理想を抱く事すら、烏滸がましい。そう思っていたのかもしれない。
因みに、母が寂しがるので一週間以上家を空ける事はないが、父の主な活動場所は海外にある。詳しい仕事内容は拓人の知るところではないが、一度に大量の人を殺める事もあるのだと、人伝に聞いた事があった。
「同級生で、隣のクラスの女子」
彼女の情報を語る拓人に、母は背後に花を散らせて応える。
「それで、それで、いつからお付き合いしているんですか?」
興味津々の母親に少し圧倒されつつ、渋りながらも拓人は「去年の今頃……かな」と、素直に答えた。
「お名前を聞いてもいいかしら」
駄目だと言っても聞かなさそうなので、拓人はやはり、素直に答える。
「槐愛莉。変わった苗字だよな」
し……ん。
あんなに賑やかだった母が、石化でもしたかのように動かなくなった。瞬きすらしていない。息をしているのかも怪しいものだ。
「どんな字を書くんだ?」
訊ねたのは、父だった。
「木辺に鬼」
「それは、彩花の実家だ。年齢的に、彩花の妹の子どもだろうな」
今度は拓人が固まる番だった。




