第三十二話『薬マニアと魔女と黒尽くめの』―5
◆◇◆◇
「翔?」
《自化会》本部の正門に立っている。逆光で伸びた影が、光に届いた。そうかと思うと、影は濃くなり、気付けば柔らかい体温に包まれていた。
「よかった。父さんが言った通り、ちゃんと生きてる」
光は自分が抱きしめられているのだと気付き、一気に顔へ熱が集まった。幸せすぎて昇天しそうになっていると、翔の体が少し離れた。少々残念だが、あのままだと本当に倒れていたかもしれないので、安堵する。
「アタシの事……心配して来てくれたの?」
「そうだよ。早く帰ろ」
右手を差し出された。
「深叉冴さんから、腕を怪我したって聞いたのだけど……大丈夫なの?」
「うん。治った」
手を握られ、その柔らかさに、今度はしっかりと幸せを噛みしめる。
「学校にカッコイイヤツが来たって、父さんから聞いたよね? 危ないから、外じゃ光は俺と一緒に居なきゃダメ」
きゃああああああああ! とは、光の心の絶叫だ。湯が沸かせそうなくらい熱くなった顔面を隠す事も出来ず、幸せを噛みしめる余裕もなくなった。弾みで、幸せを噛み潰す勢いだ。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「光の心臓、賑やかだね。大丈夫?」
アンタの所為でしょぉぉおお!? これも、光の心の叫びだ。とんだ逆ギレである。
確かに。耳のすぐ近くにあるような錯覚に陥るほど、心臓が騒がしい。最近は手などよく繋いでいるのに、未だに慣れない。
翔の手は柔らかい。男性ならば、例え太っていようと、分厚い皮やら筋肉やらで、ある程度の硬度があるものだ。しかし翔には、そんなものはない。赤ん坊の頬のように、柔らかい。触っていると自然と顔が綻び、幸せな気持ちになれるのだ。
(男の人が女の人の胸を触りたがる気持ち、分かる気がするわ……)
沸騰する頭で、そんな事を考える。
つまり翔の手は、光にとってそんな部類の癒しアイテムなのである。
「あの時より大きくなったはずなのに、あの時と同じだわ」
一人くすりと笑えば、翔は、何の事? と首を傾けた。
翔は記憶力が悪い。その為、よく“鳥頭”と小馬鹿にされる。しっかりと覚えようと本気を出せば、それなりに覚えていられるのだが……。一年半ほど前に、幼馴染である拓人と数年振りに再会した時にも、拓人の名前を忘れていたほどだ。最近では、父親である深叉冴の生前の顔すら忘れかけている。
光は、まだ小学生になる前に翔と出会ったのだと言う。だが、翔にその記憶はない。思い出したいが、きっと自分にとっては大した出来事ではなかったのだろう。口が裂けても、光には言えない。
翔もその程度の気遣いは――稀に――出来るようになった。たまに全く別方向へぶっ飛んでしまう事もあるが、ご愛嬌だ。そもそも、翔が“気遣い”をしている時点で奇跡的なのだから。それだけ翔の中で光の存在が大きくなった、という事でもある。
二人が手を繋ぐようになって、まだ一週間も経っていないというのに。
空を見れば、もう闇が広がっている。幸い電灯の明かりが周りの景色を浮かび上がらせてくれているので、帰路は分かる。
「ところで、何で腕を折ったりしたの?」
ぎくり。翔の動きが、あからさまにぎこちなくなった。
光は、翔が怪我を負う事を嫌う。自傷は特に、だ。翔は今までも、散々睨まれてきた。尤も、光が本気で睨むのは、翔が喜んで自らを傷付ける場合だ。翔はその事に気付いていないので、光の想いも報われない。
「俺……怪我が早く治る……えぇっと、息の仕方? を教えて貰って……。嬉しくて、えっと、康成に、上手に出来るところを見せようとしたんだけど……。失敗した」
しょぼん。見て分かる落ち込み様だ。頭のてっぺんから生えている触角が、ぺたんと垂れている。翔の感情によって変化するそれは、見ていて楽しくもある。怪我に対して怒っていたはずなのに、いつの間にか顔が綻ぶ。
「翔ががんばっているって事は、分かったわ」
努力を褒められ、翔の顔が一気に明るくなった。
「俺、登下校頑張ってるよ。走って。でね、ハイパーマンが走って行ってね。家に帰ったら、女のハイパーマンが居てね。息のしかたを教えてもらったんだよ。それで汗がいっぱい出たんだ」
女のハイパーマン? 女なのに“マン”?
うううん。意味が分からない。
光は胸中で頭を抱えた。しかし、理解出来た部分もある。
「女の人に、習ったの?」
しかし、何故に汗だくになったのか。そこは、分からない。
(何なのそれ。いやらしい!)
何がどうなってそうなったのか全く謎なのだが、何故か卑猥に感じた光は、嫉妬の炎を燃え滾らせた。
翔はそんな光の気持ちなど察する事なく、嬉しそうに報告を続ける。
「でね、『よくできた』って、頭を撫でてもらったんだよ」
ピシッ。そんな音がしたかもしれない。
「あた、頭、撫で……」
「光? どうし――」
「そ、そんなに……嬉し、そうに、言わなくたって……いいじゃないっ……!」
光は翔に向かって言い捨てると、繋いでいた翔の手を振りほどき、街灯の光りが照らす道を走って行ってしまった。
街灯の下で、翔は一人呟く。
「……さっき、俺と一緒に居なきゃダメって言ったばかりなのに……」
うううん。意味が分からない。さっきは光も自分に『がんばってる』と言ってくれたのに。頑張った内容を伝えただけなのに。何故、光は怒ったのか。
出来なかった事が出来るようになるのは、嬉しい事じゃないのかな? 俺、間違ってるのかな?
なてな、はてな、と疑問ばかり頭を巡る。
しかし、理解出来た部分もある。
「光……見えなくなっちゃった……」
街灯の明かりの中に、ぽつん、と取り残された翔は、ぽつり、と呟いた。
完全に、置いていかれた。
太陽が隠れ、月が空へ上がり、星も瞬く中。冷えた空気が翔の頬を撫で、くたびれた触角をわずかに揺らした。




