第三十二話『薬マニアと魔女と黒尽くめの』―2
東陽に会員の居住階へ案内され、洋介の部屋の前――正確には、洋介の実験室の前――へとやってきた。東陽は「やる事があるからと」去り、光は目の前の扉をノックした。
洋介は《自化会》の緊急事態にも関わらず、何だーい? と、のんびりとした声と共に出てきた銀髪たれ目のハーフ。手には試験管。光の姿を捉えたエメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれた。
「光さん? どうしたんだい? 僕に会いに来てくれるなんて、嬉しいなぁー」
(臭……何この臭い)
両手を広げて迫る洋介を、光はさっと避ける。薬品のにおいに噎せそうになるも、なんとか耐えた。
洋介は試験管を肩の上まで上げると、臭くてごめんね、と一応の謝罪をした。
「で、今日は何の用だい? アルバイトは終わったはずだよね? それともやっぱり、翔より僕の方がいいのか――」
「聞きたいことがあるの」
食い気味に切り出すと、洋介は大げさに肩を竦めて見せた。なにかなぁ、と嘆息混じりに。
思わず半眼になるのを抑え、光は腕を組む。壁に背を預けて息を吐き出した。
「あなたは《自化会》の会員の中で最年長なのよね?」
「そんな質問をしに、わざわざ? そうだよ」
光はよほど、これは前置きよ、と指摘したかったが、時間の無駄だと思ったので無視し、続ける。
「会員の中で、裏切りそうなのは誰かしら」
要点をまとめて絞りカスとなった、ド直球な質問。
洋介は想定外の問いに、目を丸くした。しかしすぐに、いつもの胡散臭い笑顔へ戻る。
周りに人の気配がない事を確認し、光へ実験室ではない方の自室へ入るように促した。それを、光は顔を顰めて拒否。
男性の部屋へ入るなど、有り得ない。二人きりなんて以ての外だ。しかも相手は、挨拶と称して頬にキスをしてきた人物だ。油断ならない。
(……人選ミスだったかしら……)
胸中で舌打ちする。
しかし他に――特に、上級会員の顔見知りが居ないので仕方がない。
光は洋介の反応を待つ。
意外にも廊下で話す事を受け入れたのか、洋介は「そうだなぁ……」と呟くと、耳打ちする仕草を交えながら光を手招いた。
光が素直に、洋介へ顔を寄せた瞬間の事だ。チュッという音がした。可愛らしい音だ。
「やっぱり、光さんは可愛いねー」
ニヤニヤ――否、ニタニタと下卑た笑顔で、洋介は手を振る。
光は洋介の触れた頬を手で押さえ、わなわな震えている。恥ずかしさからというよりは、怒りで震えているようだ。真っ赤な顔のまま、息を思い切り吸い込んだ。
「貴方を訪ねたアタシが間違いでした! さようなら!」
吐き捨て、走り去る。
後ろから「またねー」と聞こえた気がしたが、もう関係ない。
(あぁもう! 何なのあの人!)
階段まで辿り着き、足を止めた。壁に手を突き、乱れた息を整える。ひとしきり呼吸を繰り返すと、光は姿勢を正した。
「あんた、確か翔の許嫁か。こんなトコで何しとるんや」
振り向くと、黒尽くめの男が立っていた。襟足が外ハネの黒い髪に黒いジャージ。両耳に数あるピアスも黒ければ、口元にあるピアスも黒い。大きなツリ目も黒い。そして、身長は光よりも低い。
誰だろうかと光が言葉を出せずにいると、黒尽くめの男は一方的な知り合いだという事に気付いたようで、頭を掻いた。
「そうか。おれん事知らんわな。すまん。拓……っと、拓人知っとるやろ。アイツの元相方の、安宮祝」
そういえば、拓人は翔と組む前、違う人物と共に仕事をしていたのだと聞いたことがある。光は思い起こし、目の前の人物と情報を結び付けた。以前拓人と組んでいたとすると、会員歴は長いはずだ。深叉冴も、そんな風に祝の名前を挙げていた。
自分に向けられている眼が友好的なものでない事は分かっているが、光は祝の手を引き、踊り場まで階段を下りた。
怪訝そうな祝を壁際へ寄せ、周りを確認し、声を落として言う。
「急にごめんなさい。訊きたい事があるの。洋介さんったら、相手にしてくれなくて……」
と、余計なひと言まで付け足してしまったが、祝は黙って聞いてくれている。未だ眉間には皺が出来ているものの、洋介よりは話が通じそうだと判断し、続ける。
「《自化会》の会員の中に、《天神と虎》に情報を漏洩した人物が居るかもしれないの。心当たりがあったら……」
言い切る前に、祝の手が光の言葉を遮った。
「もうええ、分かった。その事、拓は知っとるんか?」
「ええ。拓人君が言っていたって、深叉冴さんから教わったの」
祝は俯いて少し考え、顔を上げた。
「おおきに。危ないから、もうこの件で近付かん方がええ。あんたに何かあって、翔がここを吹き飛ばしたら、たまったもんやあらへんからな」
祝は光の口元から手を離すと、一歩下がって溜め息を吐いた。
「心当たり……あるっちゅーたら……あるかもしらん。けどな、内輪の事やから。その件はおれが何とかするさかい、あんたは、あんたにしか出来ん事をしぃ」
頷く光に頷き返すと、祝は踵を返したが、「そや」と、光へ振り向いた。
「深叉冴さんにまた会わせてくれて、おおきにな!」
初めて笑顔を見せた祝は、そのまま階段を駆け上がって行った。
聞いていた印象と違うな、というのが、話してみて思った事だ。翔は祝の事を、怖い怖いと言う。いつも睨まれるのだと。確かに、第一印象はそうだった。しかし、
(洋介さんよりは、遥かに信用出来そうだわ)
根拠はないが、確かにそう感じた。纏っている空気が、何というか、素直なのだ。睨んでくるのも、光を警戒しての事だし、話はきちんと聞いてくれるし、考えてもくれる。そして、礼も言える。礼を言ってほしいわけではないが、悪い気はしない。
(思っていたより、すごくまともな人……)
ひと言で言い表すと、光にとっての祝は、そんな人物だった。




