第三十話『金髪の』―4
何かで撃たれたような衝撃だった。
今しがた、廊下を確認したばかりだというのに……。そこには、確かに誰も居なかった。毛虫はたくさん転がっていたが……。
朱莉は、早鐘のように鳴る心臓を少しでも抑えようと深呼吸を試みたが、細切れの呼吸がやっとだった。汗の滲む手で、辛うじてミドリを包み込んだ。
痛い。そう思う程、朱莉の後ろにある空気は、異様な質量と質感をしていた。肌を焦がすような錯覚さえ起こす空気。
巨大毛虫に刺された痛みなど、吹き飛んだ。
「副、会長……」
朱莉はゆっくり体を回すと、血の気が引いた顔を上げた。
空気を伝って感じる怒りに、朱莉は震える体を止める事も出来ず、秀貴を見た。
威を押し出した女子生徒は、竜真の精神治療――記憶の隠蔽ともいう――を受けている最中だ。少し眠り、次に起きた時には、お化け屋敷の為に設置されていたマネキンを倒してしまった記憶が、彼女にとっての現実となる。
「威は……教室から、出ようとした、女子生徒を……止めようと、して……」
今にも泣き出しそうなくらい震えている朱莉の頭を、竜真の手が撫でた。竜真は他の生徒や教師の記憶操作を終えたらしい。後ろでは皆、死んだように眠っている。
「朱莉ちゃんは何も悪くないよ。ほら、秀貴君も。怖い顔やめて。臣弥君には、僕から経緯を話すから」
「ごめ……なさい……。私が、もっと、早く、手を伸ばしていれば……」
「だから、自分を責めるのはやめなって――」
「んな事どーだっていーんだよ!」
竜真の柔らかい声を抑え込んだのは、浩司の怒鳴り声だ。
今まで威の傍らでしゃがみ込んでいた浩司が、額に血管を浮き上がらせ、立ち上がった。朱莉を押し退け、烈火の如く、秀貴の胸ぐらに掴みかかる。
それを何の抵抗もせず受け止めた秀貴が無言のままなので、浩司は構わず、着物を掴んだ拳に力を込めた。
「何をした!? 何で威が死ななきゃならなかったんだよ!」
浩司の激昂を甘んじて受けていた秀貴だったが、溜め息にも似た息を吐くと、着物を掴んでいる浩司の手を押し下げた。
「俺は、『この棟に居る生き物の息の根を止める』事と合わせて『教室から出るな』と言った。つまり、そういう事だ。理由はどうあれ、指示を守らなければ、こっちも守ってやれない」
着物の衿を整えると秀貴は、もう用は済んだ、と言わんばかりに、浩司に背を向ける。
それに対して、ちょっと待てよ! と突っ掛かる浩司の手を、朱莉が引いた。
「何だよ嵯峨! 離せよ!」
「何で副会長を責めるの。意味が分からない」
朱莉の言葉に浩司は、はぁあ!? と声を裏返す。
「意味分かんねー事言ってんのはお前だよ! 威が殺されたんだぞ!?」
「殺されたんじゃない。死んだの。殺人じゃない。事故死」
手を掴んだまま放さず、淡々と言い返す朱莉に、浩司は更に戦慄く。
「だから、そうなるのを防ぐ方法があったんじゃねーのかっつってんだよ! 分かれよ!」
「威は運が悪かった。ただそれだけ」
「同期が死んで、よくそんな事が言えるな!」
浩司は、撒き散らした分の酸素を取り込む為に、肩で息をする。
『何が起きても不思議じゃねー』――つい数時間前に、自分が言った言葉が頭を過る。そうなのだ。この非常事態こそ、何が起きても不思議ではない状況だ。頭では分かっているが、浩司は湧き出る怒りの感情を制御出来ずにいた。
朱莉は、目を伏せた。
「『防ぐ方法』」
朱莉は浩司の言葉を反復した。眼を開き、続ける。
「『あったかもしれない』……? 現場に居ながら何もしていないのに、よくそんな事が言えるわね」
息が整わず反論出来ない浩司を正視しつつ、朱莉は尚も表情を変えない。
「『ああしとけばよかった』『これじゃだめだった』『何でこうしなかった』……。後からなら、何とでも言える。もしあのままだったなら、ここに居る全員が死んでた。大勢の命を助けた副会長を責めるなんて、どうかしてる」
言い捨て、朱莉は掴んでいた浩司の手にミドリを乗せると、
「私じゃミドリをどうにも出来ない。あなたの方が、ミドリの気持ちを理解出来るはず」
そう言って、秀貴と竜真の元へ駆けていった。
◆◇◆◇
「せっかく、完璧なシナリオ作り上げてたのにー!」
学園へ到着した竜忌は、口を尖らせて残念がった。
浩司から連絡を受けて来てみれば、自分の父親が全て対処し終えていたものだから「仕事がなくなった!」と地団駄を踏んでいるわけだ。
ひとしきり喚くと、竜忌は萎むようにおとなしくなった。
「でもまぁ、いいや。大人数を相手にすると疲れるしー。ラッキーだと思っとくよ。ところで、秀さんと雪ちゃんは?」
「校内の掃除に行ったよ」
朱莉の手当てをしながら、竜真はにこりと笑う。
「朱莉ちゃんも、よくがんばったね。威君の事は残念だけど、自分を責めちゃだめだよ」
念をおすと、朱莉は無言で頷いた。
朱莉の人形は、今は動いていない。ただの人形だ。
「私は……」
ぽつり、と雫のように零れた言葉を掬い上げるように、竜真は朱莉の言葉に耳を傾けた。
「また、秀貴さんに、辛い思いを……させてしまった……のでしょうか……」
自問かと思った竜真だったが、自分に問われた言葉だと気付き、うぅん、と小さく唸った。
「安易に『大丈夫』とは言えないんだけど……。今はね、君が生きてる事も、彼にとっては大切な事だからね」
でもね、と続ける竜真に、朱莉は少しだけ顔を上げた。
「朱莉ちゃんが前線に出る事、秀貴君は望んでないと思うなぁ」
朱莉に薬草の湿布を貼り終え、竜真は伸びをした。肩を回せば、乾いた音が鳴る。
「僕さ、喫茶店で隠居生活ーとか、ちょっと考えちゃう年になってきたんだよねぇ。あと十年は頑張りたいトコだけど……最近、足腰痛くてさぁ」
ちらりと朱莉を見やれば、朱莉は瞬きをひとつ。きょとん、と竜真を見上げている。
「秀貴君のマネージャーって、大変だけど楽しいよ」
身体中、湿布と包帯と絆創膏だらけの少女に、竜真は微笑んだ。




