第三十話『金髪の』―3
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秀貴は宣言通り、屋上に居た。
赤く染まった太陽が金糸を蜜柑色に輝かせ、微風がそれを撫でていく。羽織の前下がりが、僅かに捲れた。
鋭さが印象的な眼は、今は閉ざされている。前髪が眉間をくすぐると、同じく閉ざされていた口を開き、長く息を吐き出した。
校内には、異様な気配が点々としている。小さなものから、大きなものまで。多数の気配は、ある一定の場所に固まっている。それを感じつつ、息を吸う。
どの教室に何が居るか、までは分からない。縦方向の位置関係に関しても、おおよその間隔しか分からない。だが、教室の中央付近に人が集まっている事は感じ取れる。
あまり時間を掛けると、痺れを切らした者が脱出しようとする恐れがあるため、秀貴は今が最善のタイミングだと判断した。
右手首に左手を添えると――右手首にある、みっつの数珠の内、ふたつを取り去った。それと同時に、髪も羽織も、重力に逆らって舞う。
眼を開き、右手を足元――校舎へ掲げた。
バチッ。
静電気が弾けたような音が校舎に響いた。一瞬の事だ。くしゃみをすれば聞き逃すような、そんな音。しかしそれは、確実に、校舎内に居る者の鼓膜を震わせた。
数珠を右手首に納め直すと、秀貴は意識を校舎内へ戻し――眉間を痙攣させた。舌打ちも伴って。
「これだからガキは嫌いなんだ」
怒りを含んだ悪態は、吐いた本人の消えた屋上に転がった。
◆◇◆◇
一人の女子生徒が発していただけの叫び声は、他の生徒や教師にも伝染していた。
否、一瞬だけ、治まっていたのだ。何かが弾けた音の直後に、静寂が教室を支配した瞬間があった。しかし、その静寂を終わらせたのも女子生徒の悲鳴であった。
訳が分からない。
竜真と朱莉以外は、状況も、何故そうなってしまったのかも、理解が出来ない。
ただ分かるのは、人が一人倒れた、という事だけだ。
浩司は、動かなくなった相方を凝視した。
指先ひとつ、ぴくりとも動かない。見開かれた目も。衣料品売り場にある、マネキンのようだ。それが転がっているようにしか見えない。
浩司には、近付いただけで、ソレが死体だと理解できた。動脈に指先をあてずとも分かる。
肉塊の傍らにしゃがみ込んだ浩司の、「何だよこれ」という呟きは、悲鳴と嗚咽にまみれた室内では誰の耳にも届かなかった。
「何だよこれ!?」
繰り返す。怒号に、室内は再び静まった。
威は、決して反射神経がいい方ではない。咄嗟に頭で判断して動く事が苦手だ。
彼が動いたのは、本能による判断だった。“結界の外は危険だ”と、肌で感じていた。
女子生徒が扉を勢いに任せて開けた瞬間、廊下と女子生徒の間へ立ち塞がった彼は、女子生徒にぶつかった。バランスを崩し転んだと同時に、弾けるような音が聞こえ、空気が震えた。
瞬きを挟んだら、ソレは倒れていた。
一宮威。十六歳。身体能力が低く、気は弱い。だが、心根の優しい少年だ。《自化会》の仕事では、里田浩司と組んでいた。二人が出会ったのは《自化会》が管理する孤児院だ。お互い七歳の時だった。
浩司は、初めて威顔を会わせた時「犬みたいだな」と思った。ふわふわの金髪に、目尻の下がった大きな眼。何ていったっけ、あの犬、あぁそうだ、ゴールデンレトリバーだ! と。
威は元々体が小さく、気はもっと小さかった。ろくに話も出来ない程の人見知りで、言葉の発達も遅かった。
当時の浩司は……彼は彼で、正義のヒーローに憧れる少年だった。活発で、高い所に登っては飛び降りる。しかも、蹴りもつけて。ヒーローものの主人公には、両親のいない者も多い。当時の浩司は、主人公と自分を重ねていたのかもしれない。
いや、それは今も言える事だ。
気弱な威を自分が守らなければ、と思っていた節がある。優しい威は、人を殺す事に向いていない。だから、式神を使役する。
だが、ここぞという時、咄嗟に行動出来るのは、いつも威の方だった。
本能に任せて人を助けた威は、自分の身体能力が追い付かず、よく転んだ。倒れた威が伸ばした手を掴み上げるのが、浩司の役どころだ。
だがもう、彼は手を伸ばさない。
あの情けない声も、もう聞けない。
まだ体温の残る体は、柔らかくもある。今にも起き上がって「ごめん。また転んじゃった」と笑顔を見せそうだ。
まだうまく働かない頭で浩司がそんな幻影を脳裏に浮かべていると、朱莉が、威の傍らに両膝をついた。
無言で威の瞼を下ろすと、どうする事も出来ず震えているミドリを、手のひらに乗せる。すぐに立ち上がり、辺りを見回した。
合成生物の気配はない。
朱莉が教室内に戻ろうと踵を返したと同時に、背後で声がした。怒気を含んだ、低い声。
「何でこいつを教室から出した?」
朱莉の心臓が、大きく跳ねた。




