第二十八話『骨と負傷とカマキリ再び』―5
「景、危な――」
叫びかけた界の左隣を茶色い塊が掠め、背後で起きた凄まじい破壊音が、鼓膜を震わせた。
界が恐る恐る振り返れば、壁から脛毛まみれの生足だけが飛び出していた。頭は壁を突き抜けてしまっているらしい。動きも止まっている。
界は、先刻までカマキリの居た場所へ視線を戻した。
リュックを背負った女が立っている。校内だがブーツを履いている事は、この際触れないでおこう。
「景君、大丈夫? あと、そこの男の子、鼻血が出てるわよ」
界に向かってポケットティッシュを投げながら、短い黒髪の女は景の横に座り込んだ。
「その声、恵未さんですか? 何でここに……。それより、すみません。眼鏡が壊れて、何も見えなくて……」
相変わらず、面白い目をしてるわね。と恵未が笑うと、景は毎度の如く眉根を寄せた。
景が鞄に予備の眼鏡が入っている事を話すと、それを聞いていた界が景の鞄から眼鏡ケースを取り出し、景の手の上へ置いた。
眼鏡を掛け直し、景は自分の周りを回視する。
「何か、床の血痕が凄いんだけど……」
「大丈夫! おれの鼻血だから!」
お姉さんティッシュありがとー! と、鼻にティッシュを詰めた界が恵未にポケットティッシュを返す。
「景君、廊下に先生が倒れてたから応急処置したんだけど、私、包帯巻くの苦手なのよね。ちょっと見てきてくれる?」
廊下から驚愕の声が届いたが、そんな事は気にせず、恵未は界の後ろの壁に突き刺さっているカマキリを引き抜いた。巨大カマキリは気絶をしていただけのようで、恵未が数回叩いたら意識を取り戻した。
念の為――と、恵未の手刀がカマキリの大きな鎌を切り落とす。”刀“といっても只の手なので、ちぎれるように分断された。
カマキリは身悶えたが、恵未が「暴れるな」と一発頭を殴り付けると、おとなしくなった。
「アンタ、喋れるのよね? ここに来た目的を簡潔に教えて」
カマキリは戸惑った様子で俯いていたが、少しして口を開いた。カマキリの身体的構造では人語を話すのは不可能そうだが、茶カマキリは、はっきりとこう言った。
「ユウヤさま、が、アズマ、ヒカルを、ツれてコい、いった」
片言ではあるものの、発音はしっかりしている。
「あずまひかるって、光ちゃんの事じゃん!」
ムンクの名画”叫び“よろしく、界が顔を青くした。その直後には、「ところで、”ユウヤさま“って誰?」と首を横に倒す。
「簡潔に言うと、この大きなカマキリの生みの親みたいよ」
「ユウヤ、さま、すごク、つよい。ナカマ、たくさん、コロされタ」
「それは御愁傷様ね」
気を落としているように見えなくもないカマキリの胴体を恵未がひと蹴りすると、達磨落としのように頭と胴が離れ、ロッカーにぶつかった胴体は飛散した。
それに驚愕の悲鳴と抗議の声を上げたのは、界だ。
「何で殺しちゃったの!? もっと話せば、分かり合えたかもしれないのに……可哀想だよ!」
恵未は一度瞬きし、変わらぬ表情で小首を傾げた。
「君は、人を殺した熊を射殺せずに野放しに出来る? 『可哀想』って言ったけど、こいつに傷つけられた人はどうなるの? 可哀想じゃないの? あなた自身も殺されていたかもしれないのに、とんだお人好しね」
泣きそうな顔で押し黙った界を見て、恵未は嘆息した。
「優しいのはとてもいい事だけど、優しい人って、大抵早死にするのよね。優しさで人を助けられるのって、漫画の主人公くらいよ」
恵未が肩を竦めたと同時に、景が女教師を引き摺って教室へ入って来た。
「恵未さん、包帯代わりに先生のスカートを使うのはいいですけど、もう少し布地を残しておいてください。あと、応急処置が応急すぎます。せめて患部に布を巻いて、固定を……」
「だから、包帯巻くの苦手だって言ったでしょ」
余程酷い有り様だったのか、普段文句など口にしない景が不満を撒き散らしている。
「ごめんってば。で、その先生、生きてるの?」
「傷は致命傷じゃないので、驚いて気絶しちゃったみたいですね。お陰で、トドメはさされなかったみたいです」
物騒な会話が展開される中、怪我を負った教師の姿を見て、巨大カマキリが現れた時の恐怖が振り返した。界はいつもより幾分重く感じる頭を動かし、窓からグラウンドを見やる。倒れた生徒の周りに赤色が見えた。
一見して、明らかに”死んでいる“と思われる人物は居ないが、酷い有り様だ。
界は、たじたじと恵未を見た。
「……おれも、殺さなきゃダメ?」
恵未は先程と同じように一度瞬きし、先程と同じ顔で小首を傾げた。しかしその後、にこりと笑い、界の頭を撫でた。
「君は、出来るだけ怪我をしないように生き残ればいいの。汚れ仕事は私の担当」
OK? と恵未が尋ねる。
界は戸惑っていたが、震える手の親指を立てて見せた。自身満々とは言い難いが、笑った口元で八重歯が光る。
「じゃあ、残ったキメラを全滅させちゃいましょうか」
恵未が教室の扉へ踵を返したのに間髪入れず、扉の向こうから深い茶色の体をした男が飛び込んできた。
背には茶色い羽、頭からは角を二本生やしている。いや、あれは形状からして、クワガタのもののようだ。つまり、角に見えるものは”大顎“という事になる。
その大顎には、血液がべったりとこびりついていた。
更にクワガタ男の背後からは、羽の生えた女が現れた。頭からは長く立派な触覚が二本生えていて、腰が異様なまでにくびれている。黒い体から察するに、おそらく女王蟻だろう。
何故かエナメル素材の黒いボンテージ姿で、黒い鞭を持っている。
いずれも、茶カマキリと同じ首輪を巻いていた。
「あら、えらくキメラたちがここに集まって来るわね」
恵未の言葉を、探す手間が省けて嬉しいわ、ではなく、いっぱい集まって恐い、と解釈したクワガタ男が、勇んで一歩前へ出た。
「『東光のクラスは二年一組だ』とユウヤ様が教えてくださったからな!」
先程相手にした生足カマキリと違い、流暢に喋っている。体が人間の姿に近いからだと思われる。
「ねぇ。校内に居るキメラって、アンタたちだけ?」
クワガタ男の言葉を無視し、違う質問を投げる。
男は頭の大顎をガチガチ鳴らしながら、
「そうだとも! 何人か野球のボールにやられてしまったが、俺たちだけは生き残ったのだ!」
と、何故か腰に手を当て、ふんぞり返った。
僕たちって、殺人ボールが行き交う中で生活していたのか……。景はそんな事を考えながら、女教師を教室の隅へ――引き摺って――移動させた。
「ところで、この学校の事や、その女の子の事……”ユウヤ様“は誰から聞いたか、知ってる?」
恵未が訊けば、クワガタ男は自信に満ちたオーラを纏って、こう言った。
「知らん!!」
返事を聞くや否や、恵未の両腕がクワガタの大顎を、引きちぎった。
室内に悲鳴が反響する。
うるさい、とクワガタ男を殴り、恵未は更に続けた。
「本当に知らない?」
「本当に知らないんだ!」
痛い痛い助けてくれ、と叫び散らすクワガタ男の後ろから、ボンテージ女が飛び出す。羽を使い高く跳躍し、天井にぶつかる直前で体を回転させ、天井を強く蹴る。
”女王様“は「泣き叫ぶまで叩き続けてあげるわー!」と笑いながら、鞭を構えた。
だが、ホホホホホ、という高笑いはすぐに、ぶべっ! という濁音で終わりを迎える。恵未が、ボンテージ女の顔面を鷲掴みしているからだ。
元々顔色の悪かった蟻女の顔面から血の気が引き、更に青白くなっていく。
恵未は女を床に殴り付けると、その頭を掴んだままクワガタ男の頭にぶつけた。
お互いの頭が致命傷となり、二体のキメラは教室の床に倒れた。日頃生徒たちが生活に使っているロッカーや机には、赤い飛沫が付着している。
教室にある三体の死体を確認し恵未は、さてと、と体を伸ばした。
「後片付けは、ウチの本社に連絡しておいたから。私は帰るわね」
それじゃ、と真っ赤に染まった右手を上げ、恵未は窓からグラウンドに飛び降りると、そのまま走り去った。
教室に取り残された二人は――取り敢えず、救助が来るのを待つ事にした。




