第二十七話『正義のヒーロー』―5
午後三時。
授業が終わり、校庭は、部活を始めた生徒の声で賑わっていた。
午後五時頃からは夜間の生徒がやって来るので、昼間の生徒は早めに帰るようになっている。部活も五時には切り上げないといけないので、生徒たちは授業終了直後から、目一杯活動しているのだ。
翔と拓人は、校門の前に居た。
「じゃ、帰りは四十五分で帰るぞ」
「え……何で短くなってるの?」
「潤さんに、朝の所要時間のマイナス五分で帰ってくるように言われただろ? 朝は校門まで五十二分掛かったから、四十五分で帰るぞ」
そんなすぐに速く走れるようにならないよ、という翔の言葉は完全に無視し、拓人はスマートフォンのアラームを四十五分後にセットした。
校門を出て二十分。中間地点に差し掛かろうという頃。翔の表情に生気はなかった。荒い呼吸と共に、魂まで出てきそうな状態で足だけ動いている。
(朝、ほぼ全力で走ってるもんなー。疲れてる状態で、それより速くってのは無理があるかな……)
拓人は翔と並走しながら腕時計の時間を確認しつつ、「足、もつれないように気を付けろよー」と声を掛けた。
そんな二人の横を、風が過ぎ去った。
否、人間だ。走った人間が起こした風だった。体格は、そんなに大きくない。リュックを背負っている。黒髪の後ろ姿は、見る見る小さくなっていった。
「あの速度……歩道を走っても大丈夫なのか?」
拓人が呆気にとられている横で、翔が自分の足に足を引っ掛け、盛大に転んだ。思い切り顔面をアスファルトに打ち付けている。
拓人も足を止め、大丈夫かー? と声を掛けた。
数秒間動かなかった翔だったが、唐突に、勢いよく上体を起こした。顔面は擦りむいて血だらけだ。そんな中で、いつもは死んだ魚のような瞳が、輝いている。
「拓人、見た? あれきっと、ハイパーマンだよ。日本にも居るんだね」
“ハイパーマン”。アメリカのコミックやアニメ、映画に登場する、正義のスーパーヒーローの名前だ。ピッチリとした青いボディスーツに、はためく赤いマントが特徴的なナイス・ガイ。
「色々言いてぇ事はあるんだけど、ありゃハイパーマンじゃねぇよ」
翔の眼が、驚愕に見開かれた。
「違うの……?」
「だって、マント着けてなかっただろ」
「……そういえば……」
衝撃的な顔をする翔に拓人は、それで納得するのかよ、と思った。だが口にはせず、だろ? とだけ返す。
「周りを走ってる車の速度から考えると、時速三〇キロくらいかな。一〇〇メートルを十二秒で走ってる事になるな」
「すごいね! 俺もがんばる!」
モチベーションが沸騰し、再び足を踏み出した翔だったが――ズベシャッとその場に崩れ落ちた。
まだ少し傷の残る顔面を、情けなく崩して拓人に見せる。
「お腹がすいて力が出ないよ……」
「コーンフレークは持ってねぇぞ」
何でコーンフレーク? と首を倒す翔に、大豆バーが差し出された。疑問が吹っ飛び、翔は大豆バーにかぶり付く。
翔の休憩が終わり次第、二人は再度、帰路を走った。
天馬家に着いたのは、タイマーが電子音を喚いてから五分後だった。休憩分を引けば目標達成だが、実際は朝よりマイナス二分。
それでも拓人は、朝と同じ速度で走った翔に驚いていた。
よくやったな、と褒めて返ってきたのが、お腹がすいてなきゃ出来たのに……、だった。
言い訳には違いないが、「もうヤダ」でも「疲れた」でも「死ぬ」でもない返事に、拓人はまたしても驚いた。
玄関で出迎えてくれた康成は、タオルで翔の汗を拭きながら、翔の頑張りを褒めちぎっている。
ふと見覚えのないブーツが目に入り、お客さん? と尋ねると、康成はタオルを腕に掛けながら、応接間にいらっしゃいますよ、と翔に行くよう促した。
応接間に居たのは、潤ともう一人。ショート丈の黒い髪に、左耳には黒い石のピアスをしている少女――女性?――だ。
女性は立ち上がると、翔に向かってニッコリ笑った。
「君が潤先輩の生徒さんね。《P×P》の出雲恵未よ。宜しく」
「あ、時速三〇キロのハイパーマン」
「へ?」
きょとんとする恵未に拓人が、すみません何でもないです、と頭を下げた。
「あ、初めまして。成山拓人です」
拓人が自己紹介をしたのを見て、先日、潤に教わった挨拶を早速披露しようと、翔も慌てて姿勢を正した。
「ごめん……じゃなくて、えっと、失礼、しました。天馬家十代目当主の、天馬翔です。えぇっと……あ、以後、お見知り置きください」
「こちらこそ、よろしく」
柔らかな笑みに、翔の頬も緩む。
「君たち、走って下校してた子たちね。元気ねぇー、と思って後ろから見てたのよ」
「……恵未さん、今日は東京から?」
拓人の質問に恵未は、ええ、と首を縦に振った。
「信号もあるし……途中で買い食いとかしたから、二時間掛かっちゃったんだけどね。普段あまり動く仕事じゃないから、いい運動になったわ」
「そう……なんですか……」
拓人は、何だこの女、と胸中で叫んだ。一〇〇メートル十二秒の速さをほぼキープしたまま、約五〇キロメートルを走って来た事になる。控えめに言って、化け物だ。
「恵未は俺と同じ先生に教わった妹弟子で、凌の姉弟子にあたる」
凌の名を聞いた途端、恵未の明るい笑顔が渋面へと変貌した。
「あんな奴の事はどうでもいいです。今回にしても、潤先輩の手を煩わせて。一発喰らわせないと気がすみません」
「それは勘弁してやれ」
「潤先輩がそう言うなら、諦めます」
はっきりと即答すると、恵未は鼻を動かした。パァッと顔を明るくして。
「甘い匂いがするわ! 発酵バターと卵に、レンゲ蜂蜜……それと芳ばしい香り!」
「恵未さんは鼻がいいんですね。甘いものがお好きだと伺ったので、ダッチ・ベイビーを焼いてみたんですよ」
康成が、フライパンケーキの載っている鍋敷きを恵未の前に置いた。焼きたてで湯気が上がっている。
「わぁー! 有り難うございます! 途中でチーズケーキとクレープとおはぎを食べて来たんだけど、お腹がすいちゃって」
恵未は手を合わせると、いっただっきまーす! とナイフとフォークでパンケーキを食べ始めた。
翔と拓人と潤の前には、栗羊羹が置かれた。倫が作ったものらしい。
「恵未は本社から書類を届けに来てくれたんだが、いい機会だから、翔の骨でも見て貰おうと思ってな」
潤の発言を聞いた翔の口から、栗が一粒転がり落ちた。




