第二十六話『側近の側近』―4
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ガトウ・イツキは、二年前まで“大空一月”という名だった。
一月は何の変哲もない、一般家庭に生まれた。一月は、一歳までは、周りと何も変わらない子どもだった。母は専業主婦だったので、一月はいつも母親と一緒に過ごしていた。
父親は発展途上国で建築関係の仕事をしており、家には数年に一度しか帰ってこない。正義感の強い男だった。
一月の母親が、我が子が自分や周りの子どもと違うのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
二歳になる頃だ。カラフルな絵本を読んで聞かせても、花壇に咲いた花を指差しても、彼はあまり反応を示さなかった。
チューリップを指して『あか』と教えても、小さな人差し指は青いカーテンを向く。母親は不思議に思ったが、少し物覚えが悪いだけだろう、とあまり気にしなかった。
よそはよそ、ウチはウチ。そんな考え方の母親だった。
しかし、三歳児健診の時に要検査を言い渡され、調べた結果が色盲だった。
それでも母親の考え方に変化はなかった。寧ろ、他と違う事を楽しむ母親だった。底抜けに明るく、前向き。そのお陰か、一月は他の子どもたちの中で、同じように育った。
一月の体に異変が起きたのは、彼が十三歳の頃だ。丁度、声変わりで、声がガサガサしていたのと同じタイミングだった。登校中、自分の知らない“何か”に薄く包まれている人を見掛けた。
それが、一月にとって初めての“色”だった。
何色なのかは分からない。だが一月にとって、それはとても“綺麗”に思えた。
学校の中にも、多くはないが“色”はあった。やはり、何という名前で呼ばれている色なのかは分からない。友達に訊いてみたが、他の人には見えないようだ。答え合わせのしようがない。
一月は、他人の“色”を見るのが好きだった。
好きな“色”を纏っている女子を、綺麗だな、と眺めていたら、友達にからかわれた事もある。
しかし、どういった基準でソレが見えるのかも分からない。
何故、“色”のある人とない人がいるのか……。答えが出ないまま、一週間が過ぎた頃――自分の体にも“色”が出現した。
何故だろう、と疑問に思って自分の手を凝視していると、自分の皮膚が透けて、手の骨が見えた。あまりに驚きすぎて声が出なかった事を、イツキは今でも覚えている。
朝食時、その事を母親に告白する事も出来ず、パンにバターを塗っていると、母親が手を滑らせてスープの入ったマグカップを落とした。
しかし、陶器のマグカップは床にぶつかる事なく――しかも、スープの一滴も溢す事なく――母親の膝辺りで宙に浮いていた。
それをやって退けたのは、言わずもがな、一月だ。彼が咄嗟に“落ちるな”と、強く思った結果、マグカップは時間が静止したかのように動くのをやめたわけだ。
母親は驚き、少し目尻の下がった大きな目をぱちくりさせて、マグカップを指先で突いていた。
それ以上に驚いたのは、一月自身だ。まず、自分がマグカップを止めたのだと気付くのに、一分近くを要した。
母親がマグカップを両手で包み込み、「これ、一月がやったの? すごーい!」とマグカップを見せてきたが、一月には実感がなかった。
それでも、マグカップを母親の手から離してテーブルへ乗せるイメージを抱くと、その通りになったのが決定打となった。何故だかは分からないが、自分は手を触れずにものが動かせるのだ、と確信した。
それと同時に、母親の「すごい、すごい!」という声が、ハモって聞こえた。
“一月ったら、いつの間にこんな手品を覚えたのかしら”
肉声とは異なった“声”は、一月の頭の中で反響しながら流れ込んでくる。声は途切れるように脳内で響き、はっきりとは聞き取れない。なんとなく、そう言っているんだろうな……といった感じだ。
だが、喜んでいるというか、楽しんでいるというか――弾むような感情は、しっかりと受け取る事が出来た。
今までも、周りの人とは少し違うのだという事を少なからず気にしていた一月は――自慢したい気持ちも確かにあったのだが――学校でその力を披露する事はなかった。
心身、家庭内、共に恵まれた環境で暮らしていた一月だったが、人生上手くいかないもので――母親が体の不調を訴えた。ステージ4の大腸がんだった。
一月が超能力に目覚めて数ヶ月が経った頃だ。
母親は検査を受けるも、治療は拒んだ。
一月は、透視能力でがんを見付けられなかった自分を責めたが、母親は「何言ってんの。大抵の人には見えないものよ」と笑い飛ばした。
暫くして、父親が帰国した。会社に申し出て、国内勤務に変更してもらったのだ。
父親は母親を説得し、入院させた。
十四歳になった一月だが、父親とはまだ数回しか会っていなかった。一月にとって父親は、血の繋がった“おじさん”のような存在だった。
とはいえ、父親も悪い人間ではなかった。仕事も忙しい中で、話題を作り、一月と話す時間を多くとっていた。
しかれども、父親は母親とは違った。一月はすぐに“いい父親ぶっている”だけだと気付いてしまった。
一月の超能力を目の当たりにした時の父親の感情が、母親のものとは違うものだったのだ。それは、自分とは著しく異なる存在に対する“畏怖”にも似た感情だった。
それから、一月は父親と距離をとるようになり、会話も減った。
そんな折、悪化の一途を辿っていた母親の容態が急変した。担当医からは、一ヶ月ももたないだろう、と告げられた。
父親の居ないタイミングを見計らい、見舞いへ行った一月に母親は、
「最近は一月の笑った顔を見てない気がするわ。もっと笑いなさい。そうすれば、世界はきっと、一月に優しくなってくれる」
がんで死にそうな人が言っても説得力がないよ。と目を逸らせた一月に、母親は「そうかしら」と笑った。
その晩、母親は鬼籍に入った。
一月は、後悔した。
何であんな事を言ってしまったのか。もっと他に、言うべき事があっただろう。――と。
何故、笑えなかったのか。笑って話す事など、容易い筈なのに。――と。
“笑いなさい”
いつも優しかった母親の、数少ない命令ともとれる”願い“。一月は、それならば、と笑顔を心掛けるようになった。父親とも、なるべく話すようにした。
ところが、父親と話せば話す程、父親は一月から離れた。血が繋がっているとはいえ、この前赤ん坊だった筈の存在が、今や自分と同じ目線で話すようになっているのだ。知らない内に声まで変わって。
その上、よく分からない力まで使っているのだ。父親にとって一月は、“不気味”であり、“恐怖”する存在に変わり果てていた。
それでも一月は笑って父親と話す毎日を送っていたのだが、それも長くは続かなかった。
一月が高校へ入学した年に、父親も他界した。大型ショッピングモールの建設中に起きた、事故だった。
一月は通っていた高校を中退し、父親の労災などの保険金と、アルバイトで生活を始めた。母方の祖父母が一緒に住もうと申し出てくれたのだが、一月は一人で居る事を選んだ。
父親の建てた家を売り、安いアパートへ移り住み、高校は夜間へ通い始めた。
昼はバイト、夜は学校という生活を一年ほど続けた頃――一月はマヒルと出会った。
彼女は、深夜にコンビニで働いていた。
小学生と間違えてしまう程の小さな体で。だが、彼女の纏っている“色”は多彩で力強く、彼女の強い生命そのものを現しているようだった。
昔、母親に読んでもらった絵本に描かれていた“虹”は、きっとこんな色をしているに違いない。一月はそう思った。
二人が互いに惹かれ合うのに、時間はあまり掛からなかった。一月はあまり自分から話し掛けるタイプの人間ではなかったが、数回コンビニで顔を会わせると、マヒルから話し掛けてきた。
一月は、彼女のコロコロ変わる表情を見るのが好きだった。
自分に特殊な力が備わっている事は伏せ、一月はマヒルの居るコンビニへ通った。
ある日、飲料水入りのペットボトルが詰まったコンテナを、軽々と運んでいるマヒルを見て、すごいね、と声を掛けると、彼女は白い歯を見せて笑った。
「私、超能力が使えるんだ。このくらい、宙に浮かせて持ったフリをしてりゃ楽勝だぜ!」
あっけらかんと言い放ったマヒルに、一月は言葉を失った。自分と同じ超能力者に初めて出会ったから――というのもあるが、超能力の使い方が自分と全く同じだったから。それに加え、自分が家族以外には隠してきた事を、あっさりと、しかも最近知り合ったばかりの自分に明かした事に対しても、驚いた。
一月が、僕も同じ事が出来るんだ、と告白するのに、数分も掛からなかった。
聞けば、彼女の弟も同じようにモノを動かす事が出来るらしい。
これをきっかけに、一月とマヒルの距離は一気に縮まった。
マヒルが、「この力を使って、私たちの住みやすい世界を作りたいんだ」と言った時も、抵抗なく受け入れた。
マヒルは言った。
「私たちの住みやすい世界を作るためには、私たちを受け入れない奴等を排除するしかないんだ。だから、大きな活動団体を作るために資金を集めてんだ」
これが“弟”の入れ知恵だと知ったのは、もっとずっと後の事だ。
一月自身も母親の言った通り、常に笑顔を心掛けてはいるものの、世界は自分に優しくはなってくれなかった。
ならば、待っているだけでは駄目だ。自分で世界を変えなければ――と強く思った。
握り拳を突き上げるマヒルに、「コンビニのバイトじゃ実現は難しいかもね」とつい言ってしまったのだが、それが要因となり、本格的な資金集めが始まった。
必要ならば人を騙したり、傷付けたり、殺したりもした。理想と思想の為に行うそれらの行為を、悪だとも思わなかった。悪いのは自分たちに賛同しない奴等なのだ、と。
そんな彼の気持ちに変化が起きたのは、彼が“ガトウ・イツキ”になってから――否、“父親”になってからだ。
自分に子どもが出来、我が子を抱いた途端に、人を殺すのが怖くなった。冷静に、自分を取り巻く環境を見直すようになった。同時に、今までしてきた愚行に後悔もした。
そんな状況下にあって、現れた他組織からの密偵。《天神と虎》の敵対者。ともなれば、協力者として放すわけにはいかない。
イツキは強く思い、尚巳を留める事にしたわけだ。




