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耀京には大きな市が二つある。
月の上旬に開かれるのは東市、下旬に開かれるのは西市で、それぞれ七条大路に面した左京右京に広い一角が設けられていた。
そこでは古びた小さな露店が所狭しと並んでいる。
紗夜は緋桜とともに壷装束という虫の垂れ絹の市女笠をかぶる外出用の姿になり、護衛兼荷物持ちの瑚月を伴って、東市を訪れていた。萌葱も連れていきたかったが、本格的に女童の見習いとして忙しく仕事をしているようで、ほとんど姿を見ることはできなかった。卯花にはもちろん内緒で抜け出してきている。
「うわっ、すっごいひとだね」
市女笠から垂れる薄布を通して見える東市には、まだ正午で開場したばかりだというのに、人々が道路にまで溢れるほどにぎわっていた。
楽しげな活気は、さながら日本のお祭りで出される夜店のようだ。
「耀京にはひとがたくさん住んでるからいつも混んでるんだけど、遠くの邑からもわざわざ来るひともいるんだって、崚兄さまが言ってた」
物珍しさに目を輝かせていた紗夜だったが、無邪気な緋桜と違って、彼の名前には少しばかり顔が引きつるのを抑えることはできなかった。
その『崚兄さま』にも無断でここにいるのだ。あとから知られると何を言われるかわかったものではないが、緋桜の無垢な表情に何度も誘われると断わることができなくなってしまった。
それに紗夜も興味がある。あの粉熟というものを売っていた市がどのような雰囲気なのか。これだって社会勉強というやつだ。部屋に閉じこもって古事記を読んでばかりでは、まるで受験勉強だった。
「早く早く~っ」
緋桜は我が侭で世間知らずという典型的なお嬢様気質のように見えるのに、どこか憎めない雰囲気がある。
(あの崚さんに甘い顔させるくらいだもんなぁ)
うまく立ち回れば悪女と呼ばれかねないその様子も、なぜか邪気の欠片もなく、ただ好ましいものとして映る。それすら計算ずくかもしれないなどと余計な詮索をしたくなるが、崚王がそんなものに引っかかるとも思えなかった。引っかかるとしたらわざとだ。
「あんまし離れんなよ」
「―――あ、瑚月ちゃん。あたしお金持ってないよ」
市についてから気づく自分も自分だったが、まほろばで買い物をしたことは一度もなかったのだ。紗夜は常世でも買い物が趣味というほどではないから別に不満はなかったが、衣食住だけでなく身の回りのすべてのものは耀月珠穂宮で提供されていた。
「いちおう少しは持ってるけどな」
そう言って瑚月が巾着袋のようなものから取り出したのは、様々な大きさのコインだった。一番大きいものは日本の五百円玉よりも少し大きく、そのどれもに穴が開いている。
「なんで瑚月ちゃんが」
「いいだろー。舎人の給料として勝手に支給されたもんだけどな」
「えーっ? いいなぁ瑚月ちゃん、バイト代ってこと? どのくらいの価値なんだろうね? あたしももらいたいな」
けっきょく日本での初めてのアルバイトは失敗に終わったが、ここでも紗夜が出来るような仕事はなさそうだった。ほとんどの一般人は農業で生計を立てているようだし、そもそも姫君などと言われてしまう身の上では、簡単に外に出してもらえない。
「大丈夫だよ紗夜」
人見知りしない緋桜は、屈託のない笑みを浮かべて紗夜の腕に絡みつく。まだ十六歳だと聞いたが、それにしても温室育ちなのかずいぶん幼く見える。だのに、それにすら不快感を覚えさせないだけの不思議な魅力も兼ね備えていた。
「お金はね、瑠栄大宝っていうんだけど、それ使わないでなんかの物と取り替えてもらってもいいんだよ」
「物々交換ってこと?」
「そう、それっ」
緋桜は袖の中からまだ使っていない筆を取り出した。紗夜の部屋でも硯箱のそばに似たような筆がおいてあったが、やはり新品同様のままだった。
「これと交換しよ。ここねえ、美味しいお菓子売ってるんだよ」
「緋桜は来たことあるの?」
「こっそりね。あ、これ崚兄さまとかにゆっちゃあダメだよっ」
緋桜はあっけらかんとして笑った。
かなりの人ごみだというのに、彼女は小さな身体ですいすいと奥に向かっていって見逃してしまいそうだった。それでもなんとか追いつくと、ひとつの露店で熱心に菓子類を見ていた。
「ここいらでいちばん美味しい唐菓子だよ」
「ほんとぉ? 黏臍は……まだないかぁ。粉熟はある?」
「あるよ。それからこの粳葡萄もおすすめだな。ずいぶん早いだろ」
人を掻き分けて紗夜もその露店を覗いてみる。
見たこともないものばかりだが、緋桜はどれも知っているらしい。ここで生活を始めて一年というが、すでにずいぶん慣れているようだった。
黏臍というのが通常は節会という朝廷の公式行事で食べられる餅で、粉熟は米などの粉をこねてゆで、甘葛をかけて竹筒に押し入れ、押し出して作った甘い餅のようなもの。そして、粳葡萄というのがブドウのような果物のことだと瑚月が後ろから小声で教えてくれた。
「お菓子屋さんなのに果物?」
「あぁ、ここじゃ菓子も果物も菓子っていう。日本みたいに西洋のチョコレートとかがないから甘味のもんは少ないんだ」
瑚月は大学での専攻は法学部だったが、日本の古代史に昔から詳しかった。それは、いつかこうしてまほろばに関わる日が来ることを踏まえていたのだろう。瑚月が教えてくれるまほろばの概要は、実際たしかに日本の古代史と少し似ている。お前も勉強しとけよという小言付きだったが。
「ね、この筆と交換したらどのくらいになるかな」
緋桜は勝手がわかっているのか一人でどんどん交渉していく。世間知らずで物怖じしない大胆さだけで乗り切っているような気もするが、むしろこの世界で世間知らずなのは紗夜のほうだった。
「かなりいい筆だな。どうしたんだこれ」
「うちにあったんだよ」
緋桜はなにげなく言ったつもりのようだが、どうやら一般家庭が気軽に持てるような代物ではなかったようだ。当然である。赫映の住む耀月珠穂宮は、内裏に比肩する厳格な宮であり、十六町もの敷地を誇る邸宅の調度品のひとつひとつにいたるまで、安物が転がっているはずがない。
「ここらをうろうろするような娘が持てるもんじゃねえぞ。盗んできたんじゃないだろうな」
「ちっ違うよ~っ」
「あー、じゃあさ、これで払うからいくらなんだ?」
とんだ容疑をかけられる前に瑚月が慌てて間に入り、じゃらじゃらと袋を揺らして音を立てて見せた。少し訝しく思う気持ちは残っていたらしい商人も、狩衣の男を従えさせるほどの身分の少女なのだと少しは納得したのか、いくつかの菓子を指差しながら全部で十文だと答えた。
「なにするの~瑚月ったら。あたしが買い物したいのにっ」
「あんまし目立ったことすんな。トラブル起こしたら、市司の連中が来るだろ。どうすんだよ」
ここを監督している役職なのだろう。市の中では買い物をせずに、刀をぶら下げていかめしい顔つきであたりを見回っている男たちを、紗夜も何人か見ていた。
「うー……そぉだけどーっ」
子供っぽい表情で緋桜が反論しようとしたそのとき、はっと急に瑚月が顔をあげて空を見上げた。
雨でも降ってきたのかと思ったが、それにしても慌てすぎだ。それに釣られて見上げた空は、雲ひとつ見当たらないほどの晴天だった。
「瑚月ちゃん?」
「ここを離れるぞ」
「ええ?」
「今すぐ!」
瑚月は問答無用といわんばかりに紗夜と緋桜の腕をそれぞれ掴んで走り出した。けっきょく買わずに立ち去ろうとする客に不満そうな商人の声が聞こえてきたが、瑚月は構わなかった。
壷装束は外を歩くためのものだとはいえ、全速力で走れるようには出来ていない。瑚月もそれをわかっているようで、紗夜と緋桜の足がもつれない程度の速度を保っていた。もっとも、大勢の人々が歩いていてこれ以上素早く動くことはできなかったのだが、それでも多くの庶人が早足の瑚月たちを怪訝そうに振り返った。
紗夜たちは露店を抜けて七条大路に出てきたが、そこにも市に入りきれない多くの人が集まっていた。
瑚月は相変わらず空を気にしている。
「何か、あったの?」
「―――まだ、わからん。八咫が警告してる」
紗夜たちは朱雀大路から東市へ来たが、瑚月はそこには戻るつもりがないようで、猪熊小路を南に進み始めた。幸いこの細い通りに今は誰もいない。
一歩そこに踏み入れただけで、はっと瑚月が足を止めて紗夜たちを背中にかばう。
紗夜も気づいた。あまりにもあからさますぎる気配……。
放たれる独特の殺気。
そして、紗夜たちの行く手を、巨大な植物のようなものが阻んでいたのだ。