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京の桜もいつのまにか散った卯月上旬。季節は夏とはいえ、まだ春の欠片をどこかに残していた。
それでも容赦なく強まる陽光の陽射しにそっと目を細めながら、神祇少佑の久遠は訪れた邸で珍しく追い返されず、女房に寝殿へ案内されて簀子を歩くことを許された。左京の三条大路に面したここは、大邸宅ではないが風趣よく整備されている庭だけを見てもその主の気質がうかがえる。
「本当に、殿にはご無理をさせてくださいますな。今日は体調がよろしいということで通すことをお許しするのですよ」
自分よりずいぶん年上に見える女房は、急な訪れに不愉快な顔こそしなかったものの、主人の体調を配慮してか、その口調は淡々としていて、少なくとも歓迎されていないと分かる態度をあえて崩さなかった。
「なるべく早急に退出いたします。医師などは、今は……?」
「今日はもう帰られましたわ。今は神祇大佑様がいらっしゃいますけれど」
思いもよらない人物を挙げられて軽く瞠目した久遠の様子には気づかず、彼女は緩やかな動作で渡殿を歩く。
「こちらでございます」
簀子の格子は上げられ、廂に座っていた直衣の男がその声に気づいて振り返った。
「おや、久遠殿ではないか」
一段下がった簀子に腰を下ろし、久遠は丁寧に礼をする。その間に女房は下がっていった。
神祇大佑の銀杏は、神祇官においては、同じ判官でも久遠よりも位階は高い。とはいえ、太政官では正五位下を賜っている久遠のほうが総合的には高位ともいえる。
神祇官は祭祀や神事をつかさどり、風水や天文、呪いなどを管轄する陰陽寮とともに、年齢や経験よりも陰陽道などの潜在能力が重視されるため、久遠のように太政官と下位の神祇官を兼任することもあるのだ。
「そのようなところに座っていないで、こちらへどうぞ」
四十歳に手が届く彼は、細い双眸をますます細めて笑顔を向けた。ふっくらとした頬に、背が低く丸々とした体型、激怒どころか声を荒げることすら見たことがないと評判のおっとりとした人柄だ。
「神祇少副殿のお加減が珍しくよろしいと女房にうかがったのですが、いかがでございましょうか?」
廂まで膝行したものの、銀杏よりは少し下がって控えることにした。
そこには御簾が垂れており、母屋で休んでいるらしい神祇少副の姿は見えなかった。
「ああ、その声は久遠だね。あはは、また生真面目に仕事の話なんか持ってきちゃったりしてるのかな?」
「―――は?」
病人の見舞いに来たというのに、やけに舌足らずで明るすぎる声が御簾の中から聞こえた。……耳を疑った。別人かと思うほど口調が違っている上、初めて名前を呼び捨てにされた。
久遠と銀杏よりも高位の次官、神祇少副の朝露は、寡黙すぎることはないが物静かで思慮深い人物として知られている……今までは。
神祇官の長官は神祇伯といい、空位ではないが実務を執ることはなく、人前に出ることもほとんどない。次が次官の神祇大副だが、こちらは正真正銘の空位だ。現在、実務における最高位はこの神祇少副の朝露だった。それを補佐するのが神祇大佑の銀杏と神祇少佑の久遠の二人である。
実質的にはこの朝露が、神祇官をまとめており、彼にはそれだけの知識や人脈、信頼などが備わっていた。
「……ど、どうされたのですか、少副殿」
「なんの話だっけ? この前? ああ、桜はどうなったかな。それよりも、夕餉は鮎で頼むよ。ああ、酒は最近飲んでなかったな、あはははは」
たしかに体調はいいのかもしれないが、これでは……。
(……よすぎるのでは? ご病気と聞いていたのに)
酒を飲んでいないと言っているが、泥酔しているとしか思えないような口調だ。
久遠を振り返った銀杏も、困ったように肩をすくめた。
「私が参ったときには鬱々とお辛そうだったのだが、しばらくすると突然このように楽しげにお話し始めてね」
「はあ……」
なんの病か知らないが、一月近く参内もできないほどである。このような朝露の姿を見たことがないだけに、久遠はさらに不安を募らせた。
なにやら上機嫌に話しているのだが、口ばかりが逸るのか、すでに何を言おうとしているのかよくわからず、支離滅裂な言葉を吐き続けている。そもそも彼は、宴などに出ても酒など軽くたしなむほどしか飲まないことで有名だった。
(……たしかにこれでは参内もできないだろうけれど)
仕事にならないどころか、人格を疑われて退官になってしまう。
本当に、病、なのだろうか。
「医師の薬なども効かぬのでしょうか」
「私も個人的に地方の珍しい薬草などを届けているのだが、この不安定は変わらないようでね……」
原因がわからない以上、できることは多くない。銀杏も優しげな表情に憂いを乗せてそっと顔を伏せた。
「やはり大納言様に見ていただいたほうがよいのかもしれません……」
琥珀の言葉を思い出し、久遠は一人ごちる。脈略のない言葉に聞こえたのか、銀杏が怪訝そうな顔を向けてきた。
「大納言様? なぜここであのお方が」
「優れた医者の知識を有していると聞いたものですから」
「……っ!」
久遠と同じように、あの高官が地下の職についていることなど考えもしなかったのだろう、大きく目を見開いて絶句していた。
「し、し、しかし……大納言様のお手をこのような奇病で煩わせるなど、あまりにも恐れ多い……」
「―――はあ」
恐れ多いというよりは、単純に恐ろしいのだろうと久遠は推測した。優雅な瞳の奥底で何を考えているのかまったく読ませない彼を、実務を間近で見ている殿上人なら誰もがそう思う。彼の外見や雰囲気に呑まれて恍惚の眼差しを向けるのは、何も知らない女官や地下人たちばかり。久遠も自分で頼むつもりはなかったし、琥珀は神祇官ならばと言っていたけれど、久遠が頼んだところで大納言崚王を動かせるとは到底思えなかった。
「琥……いえ耀宮大夫殿にお頼みすれば可能かと存じますが……」
「そ、そ、そそそそうか……」
まだ萎縮しているのか、銀杏は珍しくうっすらと冷や汗すらかいていた。久遠は助けるつもりで大納言の名を口に出したのだが、救われるどころか被害のほうが大きく、申し訳ない気持ちになるとともに、改めて琥珀の偉大さを再確認する。やはりあの邸を何度も訪問しなければならない耀宮大夫など、自分にはとうてい勤まりそうになかった。
(今の神祇官はこちらの大佑殿がなんとか束ねていらっしゃるけれど、やはり判官の権限では……)
実質的な職務を担当する神祇官の次官は、神祇大副が空位のため、今は神祇少副の朝露のみだが、この状態が続けば祭祀も滞りかねない。それを倭皇に奏上して権官なりを任じてもらいたいのだが、銀杏はまだその気がないのか、奏上はしていない。久遠が進言するのもおこがましく、ただ彼の判断を待つしかなかった。
正式に銀杏が朝露の地位である神祇少副の権官にでもなれば、神祇官の混乱も少しは落ち着くだろうに。
それが望めないのであれば、やはり一刻も早い次官の復帰が求められる。
「……? 少副、殿?」
二人が会話をしている間も饒舌に一人でなにやらわけのわからない言葉を発していた朝露が、急に静かになっていた。上機嫌すぎるのも奇妙だが、急に無言になるのもまたおかしい。
銀杏としばらく目を合わせてから、久遠はそろそろと御簾に近づいた。
「少副、殿? どうされました?」
やはり返事はない。
仕方なく、久遠は無礼を承知で御簾を少し巻き上げた。母屋の中央で脇息にもたれて座っていただろう朝露は、烏帽子がうしろに落ちているのも気づかずに、その脇息を枕にして熟睡していた。
客の目の前で寝てしまう主を見たのは、これが初めてだった。