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第二帖 佳月なきも夢の如くに  作者: 水城杏楠
二章  道行き人も むすぶばかりに
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「えっとー……古事記、古事記……っと」

 紗夜の部屋である六合(りくごう)舎に置かれている本はどれも古めかしく、紐で閉じてあるだけのものだったが、日本の博物館などで見るよりもよほど保存状態はよかった。

 瑚月が選んでどこからか持ってきたものらしい。表紙に古事記と書いてあるものは、すぐに見つかった。

(っていうか、あれ?)

 ―――三冊ある。

(これ全部読むのー? 一冊けっこう厚いしっ)

 少しくらい読める文字はないかとペラペラと捲ってみたが、どれも同じような文字が並ぶばかり。いや、紗夜には文字にすら見えない。筆の流暢な流れによって、それはミミズのように紙の上をのた打ち回っている。

 日本の本のようにつるつるの紙ではなく、柔らかい手触りの和紙。表紙は古風な押し花で飾られていて紙を留める紐も鮮やかな色合い。

(ここで諦めて瑚月ちゃんにバカにされたくないし! 古語ったって日本語でしょ。時間かければ読める文字だってあるはず)

 紗夜は古事記上巻とかろうじて読めた表紙の本を手に取った。文台(ぶんだい)の上の硯箱(すずりばこ)を片づけてそこで丁寧に数枚をめくる。

「……………………」

 よくよくじっと見れば、たしかに崩してあるものの漢字だとわかる。

 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主。

(……っていうか漢文? 平仮名なんもなしーっ?)

 気力でなんとかなるものではなさそうだった。たった一行とにらみ合っただけで疲れて紗夜はごろんとその場に寝転がった。

(ここに残って本当によかったのかな)

 何度も何度も、それを考える。

 それは答えのない問いにすぎなくて。たぶん永遠に。

 自分の手を持ち上げる。何枚も重ねた装束の袖。二藍と萌黄の杜若(かきつばた)(かさ)ねと言う。卯月(うづき)になり、まほろばでの季節は夏。もう春の服は着られない。

 横を向けば几帳や壁代(かべしろ)。それらも卯月朔日にすべて夏物に替えられた。こうして季節が一秒一秒過ぎていくことを実感させられる。

 ―――この先へ行くしかないのだと。

 花残月とも呼ばれるこの月。

 春の名残は、あるのだろうか……。

(こないだ聞いた歌……春は留まってくれない、みたいな意味のを瑚月ちゃんがゆってたっけ)

 ぜんぜん覚えられない……暗記は苦手なのだ。

 漏れそうになる溜息を押し隠して寝返りを打ったとき、わずかな衣擦れの音が御簾の向こうで聞こえた。

(やばいっ! 卯花(うのはな)さんかもっ)

 慌てて紗夜は起き上がった。『姫君』がこんなところで横になっていたら怒られる。いつかに春の陽気が心地よくて昼寝をしていたら、姫のたしなみがどうのこうのと叱られたのだった。

「姫様、失礼いたします」

 御簾を上げる音、床を滑るように歩く足音。いつか紗夜もこういう仕草ができるようになるのだろうか。この耀京(かがやきのみやこ)に呑まれて優雅な生活にも慣れて? ……そんな自分はいまのところ想像できない。

 卯花(うのはな)はいつものような完璧な所作で紗夜の前に座り、丁寧に頭を下げてから漆の皿を差し出してきた。

「以前、姫様が粉熟(ふずく)をお試しになりたいとおっしゃっておりましたでしょう。市に人をやって見つけさせましたの。お口に合いますかわかりませんけれど」

「あ、わざわざそこまでしてくれたの? ありがとう、卯花(うのはな)さん」

 けっきょく卯花(うのはな)にも紗夜の名前を呼ばせることはできず、いまでも姫様扱いされたままだった。彼女も萌葱すらも、紗夜が月夜媛(つくよのひめ)だとは知らないのに、だ。

 崚王の縁戚というのは効果絶大だった。

「市って東市(ひがしのいち)? もしかして西市(にしのいち)っていうのもあるの?」

 緋桜が行きたいと言っていた市だ。何が売っているのかと思っていたが、スーパーマーケットのようなものなのだろうか。

「ええ、姫様は耀京(かがやきのみやこ)に来られるのは初めてと伺いましたが、こちらの市は大きいものでございますよ」

 耀京(かがやきのみやこ)が初めてどころか、まほろばという存在すら知らなかったのだが、ひきつった笑顔でうなずいておいた。

「月の上旬には東市(ひがしのいち)、下旬には西市(にしのいち)が開くと決まっておりますわ。まほろば中から人が集まり、それは活気のあるものでございます」

「へえ……見てみたいなぁあたしも」

 どんなものが売っているのだろう。日本で売られているようなものは何もないような気がする。この粉熟(ふずく)というものも和菓子のようだが見たことはない。

「まぁ、姫様が市に行くなど危のうございますわ……必要なものがございましたら下女になんなりと申し付けてくださいませ」

「…………う、うん」

 必要なもの……と言われても、何を売っているのかもわからないのに。

(やっぱり、緋桜といっしょに無理やり行くしかないんだなぁ。危ないっていうけど、瑚月ちゃんがいればなんとかなるだろうし)

 紗夜はとりあえず差し出されたその粉熟(ふずく)というものを食べてみることにした。

 甘葛(あまづら)という甘味料を混ぜているというだけあって、たしかにほのかに甘かった。けっして不味くはない……だが、日本で様々なものに食べなれてしまった紗夜には、何か物足りない味に感じた。シンプルすぎる。

(食べれないものじゃないんだけどね、うん……)

 だが、せっかく持ってきてくれた卯花(うのはな)には、笑顔で美味しいと言っておくことにした。

「……あ、そうだ、卯花(うのはな)さん」

「はい、なんでしょう」

「この前えっと……知り合いに聞いた歌を思い出せなくて。春は留まってくれない……みたいな意味の歌ってあるかな」

「それでしたら、和歌集のお歌でございますね。『惜しめども とどまらなくに 春霞 かへる道にし 立ちぬと思へば』と申します」

 ほとんど考えることもなく、すぐにすらすらと和歌が出てくる。古今和歌集には千首を超える歌があると瑚月は言っていたのに。

卯花(うのはな)って全部の歌を覚えてるの?」

「ええ、和歌集は基本でございますから。昔、宣耀殿(せんようでん)女御様というお方がすべて覚えていらしたというお話がありまして、それ以来女の教養と言われておりますわ」

「そ、そうなんだ……」

 とたんに紗夜はこの世界で生きていける気がしなくなった。千首覚えて当たり前と言われているようなものだ。

(歌の丸暗記に琴……字も上手だし。そんな完璧でも卯花(うのはな)さんはただの使用人なんだ)

 本来なら紗夜ができなければならないことを、卯花(うのはな)はやっている。

卯花(うのはな)さんって、出身はこの耀京(かがやきのみやこ)なの?」

「え? いいえ、わたくしは……お恥ずかしいのですけれど、本当に小さな田舎の邑の生まれですのよ」

「えっそうなんだ?」

 萌葱も田舎出身だが、その所作はずいぶん違う。たしかに萌葱もまほろばの仕組みなどには詳しかったが、話し方は卯花(うのはな)のようには上品ではないし、それをめんどくさがってもいた。萌葱ひとりを基準にはできないが、やはり一般的にはそちらの感覚のほうが正しいのではないかと思うのだ。

「どうしても赫映様のおそばに置いていただきたくて、邑を飛び出してきてしまいましたわ。もう何年も前ですけれど……」

 目を伏せて、恥ずかしそうに彼女は言った。その仕草ひとつ取っても、田舎の邑から出てきたとはとても思えなかった。

卯花(うのはな)さんも昔は何もできなかったのかな……ここに住んで歌を覚えて琴の練習して……それでこうなったのかな……)

 萌葱も面倒だとか文句を言いながらも、懸命に作法の練習をしている。耀京(かがやきのみやこ)でやりたいことがあるから。卯花(うのはな)もそうなのかもしれない。

「姫様は何をお読みになっていたのですか?」

「え? ……あ、えっとね……知り合いに読んどいたほうがいいって言われた本なんだけど、古事記(こじき)

「まぁ、古事記(ふることふみ)のことですわね」

「え? ふる、こと?」

「これは昔、神と人が共に生きていたころのお話ですけれど、常世の者が書いたものですからこちらで伝わっているお話とは少し異なっておりますのよ」

 神と人が共に生きていた、とさらりと彼女は言う。

 そのころは、アマテラスやスサノオと言われる神も人と生活をしていたのだろうか。かつての赫映や月夜媛(つくよのひめ)は、会ったことがあるのだろうか―――神に。

「でも、文字が難しくって」

「姫様のお生まれになったところでは手習いなどさせないのですか?」

 嫌味でも皮肉でもなく、卯花(うのはな)は可愛らしく首をかしげて問いかけてきた。

「これに書かれてるのとはちょっと……違う文字っていうかー……」

「?」

 納得していない様子の卯花(うのはな)だったが、紗夜が見つけた古事記のうちの一冊を手に取って開く。

「もし赫映様のお話を探しておられるのでしたら、こちらの中つ巻にほとんどが書かれておりますわ」

「あ、ありがとう」

 卯花(うのはな)がページまで指定してくれたおかげで、どこを読めばいいのかだけでもわかったのだ。格闘してみようと紗夜は再び文台(ぶんだい)に向かった。


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